KyotoParis.

 2010年5月17日月曜日

 夏みたいに明るい午前の日差しを浴びて、木屋町を抜けM君のお店へ向かった。自転車の前輪はパンクしてしまった様で空気があまり残っていない。耳元ではイヤホンからBBCのニュースが流れてるけれど、気もそぞろで英国アクセントの英語なんて全然聞こえやしない。僕はまだ未完成の店の前に自転車を停めて、それで開いたままの扉の前へ行くとホコリと工具だらけの店内にWが立っていた。一昨年の10月に彼女がフランスへ経ってから1年半以上が経過している。自慢の長い黒髪がバッサリと切られていて、それから微かに日本ではない場所で生活していた人間の表情をしていた。もちろん彼女は相変わらずタバコを咥えていた。

 状況というのは変わるものだ、M君は自分の店を持ち、Wはすっかりパリに住み着いた絵描きになった。同じ場所にまだいる僕と。3人でここにいるなんて全然予想もしないことだった。

「向こうにいるときは京都が恋しかったけれど、いざ帰ってきたらもう1日で日本うんざり、パリに帰りたい」と散歩中に彼女は言った。

 壁に絵を描いてジェットブラックのアクリルガッシュで手が真っ黒な僕らはオシャレなカフェで5人組の女の人の隣に陣取った。彼女達は結婚と美容と旦那の稼ぎの話しかしないみたいなので、僕たちは笑いを堪えるのに必死だった。世界にはたくさんの線が引かれている。手を出して握手くらいはできるけれど、跨いで向こうへ言ってハグをしようとは到底思えない種類のライン。握手だって向こうの方から御免かもしれないけれど。なにせ僕たちの手は真っ黒だから。

 きちんとした会社で働く収入の安定した男と恋愛結婚して家庭を築き家と車を買って聡明で可愛らしい子供を育てるいつまでも若々しくてきれいな私、をコンセプトとしたゲームは粛々と続けられる。
 それはもう単に僕たちとはあまりにも遠いルールだった。なぜか遠い過去を見ているような。

 夜がはじまって四条大橋を渡りさようならを言う。次に会うのがいつだか全然分からないけれどサバサバしたふりの得意な僕たちは手を一度だけ振って二度と後ろを振り返りなんてしやしない。

 天気の良い初夏、京都は夜の7時。まだ始まったばかりの夜に、待ち合わせへ急ぐ人々の雑踏を、鴨川から吹き上がる湿気た風が通り抜ける。うっすらと汗が覆う肌を感じ、手に残った絵の具が本当は何の跡なのか考えながら、僕は小さな路地に入り北へ向かった。

精霊の王
中沢 新一
講談社


沈黙の春 (新潮文庫)
レイチェル カーソン
新潮社