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ミズカラニヨッテミズカラアル;その1

 今から書こうとすることを、僕がどれだけ正確に表現できるかは分からない。
 大袈裟な話に見えるかもしれないし、実際のところ大袈裟なのかもしれない。でも、僕にとってはそれは本当に大きな発見だった。ここ数年でジワジワと、まるで深い海の底から浮上して来るかのように、それは姿を現した。あるいは組み合わされたパズルのピースがある閾値を超えて、それが一体何の絵なのか大体のところ分かったという風に。

 これから書くことが一体何人の人に理解してもらえるかどうかも分からない。でも恥ずかしげなく書こうと思う。笑われてもいいけれど、僕はとても真剣だ。今まで書いてきた文章の中で一番真剣に、言葉にできないことを言葉にしてみようと思う。

 その大袈裟な文章はこういう一文から始まる。

 『心に刻む言葉は一つで良かった。結局のところ。
  自由自在という言葉。』
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 心に刻む言葉は一つで良かった。結局のところ。
 自由自在という言葉。

 話を20年前に遡ろう。僕は11歳で小学校の5年生だか6年生だかその辺りだ。児童書ではない「大人向け」の本を、なんとか背伸びすれば読める頃。ズッコケ三人組江戸川乱歩の少年探偵団シリーズも読むけれど、家に転がっていればサマセット・モーム遠藤周作もとりあえず読んでみるという年頃。

 どうしてか全く分からないのだけど、僕はとても本が好きだったのに子供の頃図書館を利用しなかった。学校の図書室もほとんど使った記憶がない。代わりにかなりの時間を本屋での立ち読みに費やし、欲しい本を絞って買った。小遣いはほとんど全部本屋とDYIショップで使い果たしたと思う。それから本に限ってはほぼ無制限に親が買ってくれた。
 それでもいつもいつも読む本が手元にあるというわけではなく、僕はときどき仕方無しに父の本棚を漁っていた。当時はほとんどエッセイめいたものに興味がなく、読みたいのはいつも「物語」だった。誰かの”考え”を読みたいのではなく、純粋なアミューズメントとしての物語の味わい、向こうの世界に行くことを僕は求めていた。

 でも買ってもらった本からも、それほど多くはない父の蔵書からも、やがて物語は尽きる。今日はもう本屋に連れて行って貰えそうにもない。そんな時に僕は仕方なくエッセイめいた本を読むことにした。それが、森政弘さんの「矛盾を活かす超発想」という本だった。たぶん父が買ったばかりの新しいその本は目に付くところに転がっていて、表紙がそれなりに面白そうなイラストで、まあ読んでみてもいいかと僕は本を手に取った。
 これが面白くて、僕は決定的な影響を受けた。見える世界が爆発的に広がった感じだ。

 森先生は制御工学やロボット工学の研究者で、そして仏教者でもあったから、それらロボティクス、仏教、加えて「非まじめ」というのをキーワードにして世界を眺めるエッセイを何冊か書いていらっしゃった(どの本にも大体ほぼ同じことが書いてあるのだけど)。父が好んで森先生の本を読んでいたので、僕も出版されていたものは全部読んだと思う。書かれていたことはあまり覚えていない。でもその思考形態は僕の基盤に組み込まれていると思う。

 覚えていることの一つに「自由自在というのは、読み下すとミズカラニヨッテミズカラアルなのだ」というのがある。これが本当に正しい自由自在という熟語の読み方なのかどうか知らないし、「だから何?」といったようなことだけど、どうしてかこのミズカラニヨッテミズカラアルというのは僕の頭に張り付いてしまった。
 それは特に具体的な働きをせず、単に頭の中に一つのガラクタとしてしまわれていて、ときどき自由という言葉を目にした際に自動再生されるだけのものだった。意味を伴わない単なるフレーズとして。
 ミズカラニヨッテミズカラアル。

 ところが、年を重ねるに連れて、自然とこのフレーズが重大な意味を持ち始めた。モヤモヤと明瞭ではない形で、ここに何か大事なものがあるのだけど、それがどうして大事なのか自分では説明できないし、大事だとは思うけれど意味は分からない、と言った雲がかった話だ。
 分厚い雲に覆われて姿が見えないにも関わらず、ほんのときどきは「それ」を応用することもできた。だから僕は「それ」が一体なんなのかときどきは考えざるを得なかった。考えているうちに、自分の中でだけはなんとか分かった気がした。でもそれは人に説明されない暗黙知としての理解だった。歩けるようにはなったけれど、歩くときに自分が体の各部分をどのように動かしているのかは人に説明できない、といった感じの。
 そこにはただ漠然たる知があり、僕はそれに与えるべき形も言葉の組み合わせも掴んではいなかった。

 与えるべき言葉の組み合わせ、その最後のピースは奇しくも同じく森という姓を持つ工学者から与えられた。
 森博嗣『自由をつくる自在に生きる』
 森博嗣さんの本は彼が建築の助教授兼作家だった頃、「すべてがFになる」から10作品程を読んでいた。登場人物に影響されて半年程嫌いな筈のタバコを吸っていたくらいには影響も受けていた。小飼弾さんのブログで『自由をつくる自在に生きる』が紹介されているのを目にしたとき、僕は読む前から「これが最後のピースだ」と分かった。「分かった」というか「決めた」という方がいいのかもしれない。いや、「分かった」のと「決めた」のは両方正しくて、意味は違うけれど同じでもある、と書いた方がもっといい。これが実に変な表現なのは十分に承知しているつもりで、書こうとしていることの本質でもあるので、読み返した時にはこの文章を理解してもらえる、ということをターゲットの一つとして書き進めたいと思う。

自由をつくる自在に生きる (集英社新書 520C)
森 博嗣
集英社


「非まじめ」のすすめ (〔正〕) (講談社文庫)
森 政弘
講談社