実在について


 左太ももからお尻にかけての痛みがまだ取れない。24日に高負荷かつあまり良くない方法で気分に任せてトレーニングしてしまい、なんか良くないなと思いながら続く2日間引越しをしたら随分激しく痛むようになった。以降、なるべく安静をと、研究室に行く以外ほとんど外出したり動いたりしないようにしている。ただ僕の自転車はBMXなので、低いサドルに座って漕ぐのは健常な状態でも過負荷で、今の状態だと立ち漕ぎしかできない。もちろん緩やかな立ち漕ぎ。足が痛いから立ち漕ぎなのに遅いという人目を憚るような状況です。
 そこへ来てこの雨だ。
 片手で傘を差しながら左足を庇いつつ立ち漕ぎ、というのは至難の技なのでカッパもないことだしバスを使うことにした。

 バスのシートに座ると、中吊りの広告に大きく「E=mc^2 世界一有名な式」といったようなことが書かれていた。何か怪しい似非科学開運グッズの広告かと思ったけれど、良く見ると科学雑誌ニュートンの宣伝だった。相対性理論アインシュタインの特集らしい。

 若干26歳のアインシュタインはこの式でエネルギーと質量の等価性を示した。それから時間や空間が伸び縮みすることも。ついでに同じ年、光電効果に関する論文を発表して量子力学の立ち上がりに多大な貢献をした。
 全部ものすごいことだった。
 その衝撃はポストモダンの僕たちには想像不可能だと思う。どれだけ物理学から遠くに暮らしているとしても、その人だって相対性理論の存在を込みにした空気の中で生きていて、彼あるいは彼女が本質的な驚きをこの理論から感じ取ることはもうできないだろう。今から見ればピカソの絵が古臭いのと同じことだ。芸術家でない人が見ても、もうピカソは古臭い。彼が出現したときの驚きをその絵から感じとることはできない。

 26歳の特許局職員が書いた論文はパラダイムを変化させた。
「空間や時間は絶対的なものではなくて、伸びたり縮んだり曲がったりする!わお!」

 さらに、アインシュタイン光電効果の論文で大きなとっかかりを作り、かつ、後に生涯批判することになる量子力学は、さらに大きな意味合いで僕たちの考える世界像を変えた。
「物は同時に波であって、それから微小な世界では位置も運動量も全部きっちりしてなくて確率だけがある!えっ!」

 量子力学が提示する新しい世界像は、僕たちが日常生活からの類推で得た思考ツールで思考することのできないものだ。たとえば「これがここにぶつかるとこう跳ね返って」というような具体的なイメージを用いて思考することはもうできない。相対性理論がいくら難解だといっても、そこにはまだイメージの付け入る余地があった。時間や空間が伸び縮みするというのも、細かい計算のことを抜きにすれば誰にでも理解できる概念だ。時間が遅くなるのか、へー、って。
 そういうのがもう量子力学では通用しない「粒だと思って観測すると粒で、波だと思って観測すると波である僕たちにイメージすることのできない何かが何かなって何かなる」みたいなことしかもう言えない。もちろんある程度の具体的なイメージを使って類推することは有効だし、さらに数学という超強力なツールもあるから、この学問は深く有用に発展した。でも、もう人が日常的な感覚の延長で「なるほど、わかった」という次元は超えてしまった。だから僕たちは量子力学より前の、つまり相対論までの物理学を”古典論”と呼ぶ。

 こうして、一般常識を含めた物理的な世界像はどんどんと変化して来た。昔は誰も物体が原子の集まりだなんて知らなかった。今を生きる僕たちは知っている。知っているというかそう思い込んでいる。原子が素粒子の集まりだという風にも思い込んでいる。
 思い込んでいるというのは言い過ぎか。そう思い込んでいる物理学者はたぶんいないだろう。実体は分からないけれど、今のところ素粒子いう仮定で色々説明できる、くらいにしか思っていないはずだ。

 本当はこの世界が何だか分からない。
 空間時間が伸び縮みすることに驚いたりするのは、実は何だか分からないものを勝手に空間とか時間とか呼んで、そしてそれらは変化しないものだ、と勝手に決めていたからだ。量子力学が起こったときの驚きも然り。僕たちが驚いている対象は実は「いつも思い込み」にすぎない。

 話が全然まとめられなくて、実はまだ今日バスの中で考えたことを全然書けないでいる。そのときバスの手すりを見て思ったのは、まず手すりの微細な部分についてだった。オッケー、とりあえずこれは原子の集まりだとしよう。原子は原子核と電子から成立しているけれど、まあここはその部分である電子にフォーカスしよう。こういう風に部分を切り出すのは間違っているかもしれないけれど、今はひとまず。
 電子は量子力学的には「ここにあります」ということも「こういうふうに動いています」ということもできない何かだ。小さな小さな粒なんかじゃ全然ない。そして小さすぎるからどこにあるとかちゃんと言えないわけでもない。理論的に原理的に電子というのは「ここにある」と言えない。「どこかにある」という思考形態自体が僕たちの思い込みだ。

 そして、僕たちはその「想像することのできない謎の何か」と実在していると考えている。もしかしたら「電子」という枠組みでは収まらないかもしれない。たぶんその可能性の方が高いだろう。でもとにかく僕たちはその「想像することのできない謎の何か」の実在を受け入れている。それは電子の振る舞いを計算することができ、実験的にその理論の正しさを証明することができるからだ。

 ということは僕たちは実は何かの存在ではなく「ある現象における入出力の関係」しか知らないことになる。僕たちが何かの存在を認めるとき、それはいつも「ある実体」のことではなく「ある機能」のことなのだ。実は物理学ではいつも存在の話ではなく機能の話をしているということだ。

 だから、何の機能も持たない、何の影響も及ぼさない何かが存在していたとしても、それは存在していないことになる。
 これは物理に限った話ではない。物理に限った話だとしても、僕たち現代人の思考は大きく物理学の影響を受けている。そんなの当たり前だと言われるかもしれないけれど、僕たちが「ある」というのは入力を変化させて出力する何かが「ある」と言っているだけだ。
 ここにテーブルがあると言っているのは、テーブルを触ることも見ることもできるからだ。もしもここに見ることも触ることもできないテーブルがあると言っても誰も頷かない。でもそんなテーブルがここにないってどうして言えるのだろう。人間が人間である以上、そして科学を人間が行う以上、どんなに精密で、どんなに日常からかけ離れた実験であっても、それは「ある現象について人が五感、主に視覚を使って認識できる形に変換する」という行為だから、見えない触れないテーブルを実験的に認識することもできない。

 僕が言っていることは「あなたの隣に見ることも触れることも話すこともできない無味無臭の人間が座っているけれど、その人がいるとは誰も認めてくれない」というようなことなので、はっきり言ってバカみたいな話かもしれません。別の例えでは「ゼロがここにあるんだけど、誰もあるって認めやしない」という方が正確かもしれない。でも、ゼロはあった。ゼロが発見されて数学は驚異的に発展した。
 物理的に一切の相互作用をしないものを検出することは原理的にできない。検出というのは相互作用の一つだから、相互作用しないものを検出するというのは言葉として既に矛盾している。だけど、もしもこの世界の構成部品に相互作用しないけれど重要なものがあるとしたらどうだろうか。相互作用がないことと「全然関係ない」ことはもしかしたら違ったことかもしれない。向こうからは作用できるけれど、こちらからは作用できない何かだってあるかもしれない。

 これはあくまで白昼夢に似た空想の話だ。ただ僕は漠然と、この世界と相互作用のない何かでできた海の上にこの世界が浮かんでいるような図をイメージして、そのとき我々は実在という言葉の定義を変えることになるだろうなと思う。実在を超えたその向こうの世界を、あるとすれば僕たちはいつか”見る”ことができるのだろうか。

なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)
永井 均
岩波書店


「実在」の形而上学
斎藤 慶典
岩波書店