扉は突然開く


 タイ人のSと久しぶりに話したら、まずまずの日本語で話すので驚いた。今まで英語でしか話したことがないし、一言すら彼女の口から日本語が出るのを聞いたことがなかった。
 僕が「なんだ日本語も話せるんだ、知らなかったよ」と言うと、彼女は「この間、朝起きたら急に話せるようになっていたの、自分でも何が何だかわからない」と答えた。

 そうか、こういうことって本当にあるんだ。

 彼女は色彩デザインの研究室に所属していて、別に日本語を学ぶ為に日本に来たわけでもなく、とりたてて日本語に興味があるというわけでもなく、2年間ほとんど日本語の勉強をせずに京都で過ごしている。その間、どのくらい日本語を浴びたのか分からないけれど、蓄積された経験の最後の1ピースがある日嵌ったのだろう。眠っている間に脳内で情報が整理されて、そしてある朝起きると日本語が話せるようになっている。
 驚異的にラッキーなケース。

 ターザンやシュリーマンみたいだ。ターザンはジャングルの動物の中で育ったけれど、たしか漂着した本を眺めているうちにパターンを見出し言葉を習得したはずだ。これは創作された物語で無理があるとしても、語学の天才と呼ばれたシュリーマンは・・・

 とシュリーマンの話を書こうとしたのですが、記憶が怪しかったのでググったところ語学の話どころではない記述を見つけて驚きました。

 なんと「子供の頃に聞いたトロイの物語が実話であると思い込み、その発掘調査資金を貯めるために銀行家になり、お金を貯めた後見事トロイを発掘してみせた」というシュリーマンの話は実は嘘だという説が有力になっているそうです。
 実際には古代文明なんかに興味がなかったけれど、30歳年下の妻に格好を付けるために「子供の頃から憧れの」という話をでっちあげたということです。それでも発掘したことには変わりありませんが。

 閑話休題
 シュリーマンの語学学習法は、その著書「古代への情熱」の中に書かれていて、だいたい
「毎日1、2時間、その言葉で書かれた本を一冊音読し暗誦できるようになること」
「訳さないこと」
「興味あることについてその言葉で作文をすること」
「その作文を直して貰い、直してもらった作文を暗唱できるように覚えること」
 というところなのですが、文法を覚えて辞書を引いて訳して、という通常の語学学習法とは大きく異なっています。

 僕は高校生だったときに「古代への情熱」を読みました。当時の僕は実に怠惰で、アクセントを覚えたり文法を覚えたりイディオムを覚えたりという英語の勉強からは全力で逃げていて、英語の試験で出来るのは唯一長文読解のみという惨憺たる成績でした。シュリーマンの本を読み「これだ!今日から受験英語の勉強はしない」と活路を見出した気分だったのですが、英語の教師の所へ行くと「バカかお前は」と一笑にふされてしまいます。そこですごすご引き下がった当時の自分は本当に意気地なしだったと思う。意地になって試してみれば良かったのだ。毎日試験と追試のある進学校を気取った学校だったので、もともと居残りが多かった僕はシュリーマンの方法を実践した場合悲惨なことになること請け合いだった。そういうことが怖かった。でもそれなら高校くらい止めれば良かったな、と大人になった今は思う。

 Sはこの日までほとんど日本語を話さなかった。彼女も自分の中に日本語回路が発達して行くのを全然知らなかったことだろう。それは地下に深く広く伸びていく木の根のようなものだ。誰にも見えない。ただ、それはある日最後の部品を手に入れて、そして突然に機能を発現させる。あと1センチ掘れば遺跡は見つかるかもしれない。この滅茶苦茶にあちこち掘って向こうでは途中で掘るのをやめた縦穴。時には一日1ミリしか掘らなかったり、数年間も掘るのを休んでゴミすら溜まった縦穴。だけど、あと1センチだか1メートルだか掘れば、最後の一掻きがいつかやって来て、そして嘘でもなんでも子供の頃に夢見たその王国が、あるとき突然目の前に開ける。

古代への情熱―シュリーマン自伝 (岩波文庫)
ハインリヒ シュリーマン
岩波書店


英語多読法 (小学館101新書)
古川 昭夫
小学館