「術」の呪いを解除する「道」というシステム


 「物語に銃が出てきたら、そこからは弾が発射されなければならない」

 村上春樹チェーホフから引っ張って来たこの言葉は、「1Q84」という物語の中で随分印象的なセリフだ。作品を読む中で絶対に無視することのできない細部。

 呪いと占いと武道の話をしたいと思う。
 全部ひっくるめて、単に人の持つ予言遂行性についてと言ってもいいかもしれない。僕たちは日々比較的たくさんの未来予測に接して生きていて、そして未来予測から多々の影響を受けている。それが意図的なものであるにしろ、そうでないにしろ。

 例えば天気予報はどうだろうか。
 家を出る前に「今日は雨が降る」という予報を聞いたので傘を持って出掛けた。なのに予報はハズレて雨なんて全く降らなかった。
 この時、わざわざ持ってきた傘はお荷物以外の何者でもなくなる。本当は雨が降らなくて良かったのだけど、わざわざ傘を持ってきたが為に、雨が降らないことがちょっとした「損」みたいに感じられたりする。折角持ってきたのだから降ればいいのに、と心の片隅で思ったりする。

 雨は意図的にコントロールできない。だけど、これがもっと自分でコントロールできることに関わってくればどうだろう。
 こういう言葉。

「そっちは危ないから、行ったら転んで怪我をするよ」

 これが心配性の母親の言葉なら、別になんともないかもしれない。自分はこれくらい大丈夫だ、ということを証明したくて最大の注意を払って危ない場所を通り抜けるかもしれない。
 でも、これが自分の尊敬する誰かや、あるいはわざわざお金を払ってまで占い師から得た言葉だったらどうだろうか。そういうとき、尊敬する人を尊敬できるままにしたい、あるいは、わざわざ占いにお金を払ったことを無駄にしたくない、という思いが働いて、自分から転んでしまうような事が絶対にないと言い切れるだろうか。
 もちろん、「よし、ここで転ぼう」と大々的に転ぶわけじゃない。悪い足場を踏んで足が滑ったとき、本当ならさっと反対の足を着いて転ばすに済ますことができたのに、転んでしまう、という予言が頭にあったが為に足を着くのを微かに怠ってしまうのではないか、ということです。そうして転んで怪我をする確率が上がる。怪我をして始めて、やっぱりあの人の言う事は当たるのだ、というふうに納得して何かが納まる。自分が怪我をした云々よりも予言が遂行されたことに一種の喜びを感じてしまう。
 このように、人には予言を遂行、あるいは避けようと小さな軌道修正をする性質があって、それの応用が呪いや占いだと思う。

 こういうことは何度か書いてきたけれど、いつも大体は言葉に問題を限っていた。これは考えてみれば言葉だけの問題ではなく、たとえば武道においても同じこと言える。
 空手を習う場合を考えてみると、なんだかんだいって基本的には殴ったり蹴ったりする技術を習うので、わざわざコストを掛けてそんなものを手に入れたからにはそれを使う、という呪いが掛かるのは当然のことだ。
 他の事だって習い事は全部「将来これを使うかもしれない」という予言を頂く行為だが、大体はギターを人前で演奏するとか、お茶を立ててあげるとか、そういうほのぼのとしたものであって、これらは呪いだと呼ばなくても良いだろう。
 ただ、武術は違う。ギターの発表会と生身の人間の殴り合いは別の話だ。喧嘩の術を習うと喧嘩が起こるように日々の行動を微かに制御してしまう。それは本当に些細なことかもしれない、避けるべき様子の人とすれ違うときに今までより数センチ近くを通ったり、誰かを注意するときに軽いボディコンタクトを入れたり。生兵法はケガの素、という言葉の真意はこっちにあるのではないかとも思う。

 この「呪い」を解除するために、武術は「一見喧嘩の術だけど、実はみんなが仲良くなる為の訓練なのだ」という宣言を必要とした。つまりこれは武道という生き方の学びであると。その宣言は単なるでっちあげはなくて、実際に技術の頂点として実現されたものだった。術理の究極として、「身体の操作」→「身体+武器の操作」→「身体+敵の操作(一体化)」→「全てとの一体化」の順にみんなと仲良くなるということが武術の上達にベクトルを重ねている。

 武道だけではなく、「道」の多くは単なる道徳みたいなものではなしに、技術の習得に付随する呪いを解除するプラクティカルなものかもしれない。

呪いの時代
内田 樹
新潮社


レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)
内田 樹
文藝春秋