スケール。

 理由があるのかないのか、僕たちは今僕たちが持っている時間空間の感覚で生きている。あの人の声が僕の耳に届くのは気にとめるまでもない一瞬の出来事で、この星の歴史は永遠かのように長い。原子分子の動作は見えないくらいに小さくて、太陽系は見えないくらい大きい。
 僕たちの使い慣れたスケール。

 だけど、可能性としては僕たちが全く異なったスケールを採用したことだって考えられるわけだ。80年がまるで永遠で、「意識の寿命」が途中で何度も尽きてしまい他人の意識と何十万回も入れ替わるようなスケールだって考えられただろうし。逆に80年が短すぎて認識されないようなスケールだってあり得た。1メートル数十センチの体が大きすぎて全容が把握しきれず自分が単なる細胞の一つに過ぎないと思い込んでしまうようなスケールも、逆にそれが小さすぎて見えないスケールだってあり得た。

 今話しているのは形而上の可能性についてだ。僕たちの体が原子分子で構成されていて細胞がこうできていて、その集合である身体はシステムとしてこれこれの分解能しか持てない、というような議論ではない。もしもそういった物理的な論理を持ち込むのであれば、ここで話したいことは「ではどうしてその物理的な論理は論理たり得るのか」ということだ。どうして物理で説明するのがOKなのかということだ。ある論理が論理たり得ることは論理では証明できない。なぜなら、そのとき我々は「論理が論理たり得ることの論理」が論理であることを証明する必要に迫られこれは無限に収束しないから。同時にこのとき証明が証明であることも問われる。

 一つ一つ丁寧に積み上げられた鉄壁のように一見見える論理ではなく、ただ可能性として僕たちの意識スケールを変化させたとき、僕たちの存在というのはとても曖昧なものになる。ミクロな視点で細胞の界面を見たとき、激しく動き回る分子は自分という身体の境界が実際には曖昧であることを教えてくれるだろうし、マクロでは自分の身体が単にあちこち飛び回る元素達の通り道に過ぎないことを思い知るかもしれない。
 僕たちの今持っている「自分像」というのは、たまたま僕たちが今持ち合わせているスケールから発生したものに過ぎない。

 どうして僕たちはこのようなスケールを採用して生きているのだろう。

 昔「ゾウの時間ネズミの時間」を読んだ時、僕は衝撃を受けた。そこには、短い寿命しか持たない生き物を人は憐れむけれど、もしかしたら1週間で死ぬ生き物は1週間を人の80年と同じくらいに長く感じているかもしれないじゃないか、ということが書かれていた。実際に昆虫などの小さな動物が持つ時間分解能は人よりも遥かに高い。彼らにはテレビなんてスムーズな動画に見えなくて、コマ送りか下手をすれば紙芝居みたいに見えることだろう。
 僕たちは僕たちの基準をここへは持ち込めない。無論、空間や時間、見えるといったこと自体の概念についても。

 いつか僕たちはこの世界について、僕たちの基準なりの理解をするかもしれない。だけど、それはこのスケールが生み出した一つの見方と、そのスケールで思考することをベースに組み立てられた概念の統合にすぎないかもしれない。僕らはこの世界を理解したいと思うが、なんといっても理解という概念自体僕たちの勝手に作り出した概念なのだ。