プリウスとipad(その2)。

 プリウスのブレーキ問題では、どこまで人間が制御してどこからをコンピュータが制御するのか、ということを考えざるを得ない。ひいては、自動車の運転に限らず、僕たちが何かをするときに、どこまで身体を使うのか、どこまで自分の感覚を使うのか、という問題だ。 

 iPadが発売されたのは当然の成り行きだったと思う。僕がiphoneを買って最初に思ったことは、こんなに性能が良いのならもう少し大きくても持ち運ぶし、画面をもっと大きくして欲しい、ということだった。ipadはそれがそのまま叶った形になっている。
 iphoneの小さな画面でも、ブラウザでネットを見るくらいは快適にできる。事実、目の前にラップトップがあるのにiphoneでサイトを見ることが結構多い。だからipadのようなダブレットは確実に普及すると思う。
 ただ、タブレットは入力インタフェースが貧弱だし、情報を消費する端末ではあっても、ツイッター以上の何かを発信したり作業をしたりする環境ではない。タブレットしか使わない人は知らない間に受身になっている可能性が高い。タブレットPCの普及は文字通り消費者を増やすということだ。

 タブレットPCの入力装置が貧弱だというのは、例のバーチャルキーボードのせいだけど(外付けのキーボードを使っているときは普通のPCと同じだからここでは考えていません)、入力デバイスは将来的に格段に進化して、やはり頭の中で思うだけで文章が打てたりするようになるはずです。そのとき、タブレットの持つビハインドは完全になくなるかもしれない。

 PCをメインに使うデスクワークは今でさえ「体を動かさない」作業の代名詞だけど、思うだけで入力できるインタフェースが実現したら、僕たちは指一本すら動かさないようになる。今はまだピアノの鍵盤を叩くような、感覚を使う作業だけど、それすら未来にはなくなると思う。オフィスではみんな黙って身動ぎせずにディスプレイを眺めている。通勤は自動運転の車に座っているだだ。面倒なことは全部機械がしてくれる。料理も洗濯も掃除も。代わりに料理洗濯掃除に伴っていた喜びも失う。

 僕たちは、どこまでの便利さに耐えられるのでしょうか?
 ドラえもんの世界になったら、僕は正気を保っていられる自信がありません。人生における面倒なことを全部機械がやってくれるとしたら、ワールドカップで活躍したいと思った子供はもしもボックスでそういうだけで何の努力もしなくていいとしたら。
 まったく面倒なことに、僕たちは面倒なことをするために生きているのかもしれません。

(その3へ続きます)