血液。

 誰かの頭から血が吹き出すのを見て、そして何らかの嬉しさを感じるというのは、けして誉められたものではないかもしれない。だけど、どうか許して頂きたい、僕はその時一つのひらめきを得て、それを喜ばしいと思った。一つ弁解の余地があるとすれば、それはテレビドラマの中で起こったことで、つまりは作り話であり、吹き出した血液も偽物のインクみたいなものだということだ。

 grey's anatomy season6 episode24 はものすごい展開だった。今までseason1からずっと見ていたファンにとっては衝撃的といっても良いだろう。役者が降板するとか休むとか、そういう現実世界の大人の事情を反映するのは構わないが、あまり悲しい話にしすぎないで欲しいと思う。

 バスに曳かれてERへ搬送されて来た患者は脳に出血があって、脳圧が上がり危機的な状況だった。そこで頭蓋骨にドリルで穴を開け血液を放出して患者は一命を取り留める。
 僕はこのシーンを見てある事を思った。思ったというよりも、感じたと言う方が正確かもしれない。

 僕たちの体には血が流れている、という当たり前のことだ。
 そして、体に血が流れているのではなく、血は体なのだ、ということだ。

 有り体に言えば、人体の精巧さと奇跡みたいな成り立ちに感激したということになる。60兆個の細胞がそれぞれ果たしている役割、各細胞の仕組みと機能、それらを可能にしている分子原子の性質。体内で生成される酵素神経伝達物質、とりこまれた酸素と生成した二酸化炭素。驚きべき数の皮膚常在菌と腸内常在菌。複雑な神経ネットワーク。遺伝子の持つ情報とそのデコード。
 皮膚によって外界と別枠になった体という場の中に、大量の水分を抱え、血液を循環させ、システムは無数の細部の集合として構成されていた。乾燥した冬の空気にほんのちょっとだけ切れてしまった唇の傷は、見えない精巧さとスピードで今この瞬間も修復されつつある。
 僕という場の中でとんでもない働きが常にいつも起こっていて、そして僕は生きて呼吸する。

 この時、僕が感じたことは、骨格があり、筋肉がその周囲に付いていて、さらに各臓器が配置され、一番外側は皮膚で守られている。そして脳には意識が発生する。というのとはほぼ反対のことだった。
 最初に自分という場があり、その場に液体で生存装置を作り、動けないので筋肉を作ったが強度が足りなくて骨格を生み出した、というような感覚。骨格に色々なものが付いているのではなく、ぼんやりとした自分という場の中に液体があり、その液体の中に骨格が浮かんでいるという感覚。

 それはとても楽しい感覚だった。
 人の血を見てこんなことを思うのは不遜かもしれない、けれど僕はこの謎の凄すぎる体というものをはっきりと意識して、そんなものを持って当然のように生きている僕たち人類というのは本当にすごいなと思いました。