節分祭、誕生日。

 午後11時から始まる火炉祭を見た後、境内の出店でいくつかの物を食べたり飲んだりして、それから僕たちは参道を東大路通り目指して歩いていた。その時、僕は先頭を歩いていて、Sが呼び止めるので振り返ると、みんなが一斉にハッピー・バースディーを歌い始めた。時刻は深夜を回って、2月4日僕の誕生日がやって来たのだ。
 こうして僕の31才は始まった。

 そういえば誕生日の歌の話をしたばかりだった。日本の誕生日の歌は何か、と聞かれて、僕は普通のハッピーバスディーだよと、例のメロディーを口ずさんだ。そうか、じゃあ日本語でハッピーバースディーの歌詞を教えて、と言われて、日本語でもハッピーバースディーはそのまま英語のハッピーバースディーで特に日本語訳はない、と答えるとみんなは驚いて、それから少し詰まらなさそうにしていた。(たんじょーびー、おめでとー、たんじょーび、おめでとー、って歌いませんよね? 僕は一度も聞いたことがない)

 日本語訳がなくて、そのままhappy birthdayをカタカナ読みして日本語に取り込んだというのが、日本語訳を作ることよりも遥かに強く”日本らしさ”を醸し出しているのかもしれない。
 僕はこの日まで、誕生日の歌に日本語訳がないことを全く当然だと思っていたし、そこに何の疑問を持ったこともなかった。僕たちはそういう文化の中に生きている。

 僕は2009年の2月4日に30才になり、そして間もなく今住んでいる外国人寮に引っ越して来た。先日2010年の2月4日には31才になり、後一月半ほどでここを出て行く。だから、僕の30才とここで過ごした1年間というのはほとんどきれいに重なっていると言える。この1年間、30才は文字通りにこれまでの人生の総括だった。自分が30年間してきたことを取り出して観察するまでもなく、積み上がったものが自ずから形を現して僕に答えを求めてきた。幸か不幸か、それとも幸でも不幸でもなく、その殆どが僕の欠点に関するものだった。30才は僕にとって自分の欠点を無意識下から意識の上に持ってくる、そしてそれらを直視せざるを得ないという多少過酷な年齢だったと言ってもいいだろう。得たものはそれほど多くないけれど、なんとかこの有り物でこれからとてつもないものを組み上げるしかない、ということを意識する1年間。

 そういった作業をこの寮の中で、この国の外からの視点を取り入れて行えたのは幸運だった。ほんの偶然が重なって僕は今ここに住んでいるけれど、考えてみればこれは僕が数年前に口にしたことの結実そのものでもある。当時、僕は友達と家か何かをシェアする計画を立てていた。だけどそれほどアグレッシブに計画を勧めず頓挫したのは、シェアというのが僕には少しばかりヘビーだったからだ。いくら仲の良い友達とでも、一つ屋根の下に住むというのはちょっと近すぎた。もっと堅牢なプライベートさというものも僕には必要だった。だから、その時僕はシェアという形態で一つの玄関を共有するのでなく、同じアパートに友達がたくさん住んでいる、くらいの感じが理想的だと言った。気がつけば今その通りの環境にいる。

 僕は世間的に見てかなり良くない追い詰められた状況にある。口にはしないけれど両親なんてもう心配で気が気でないだろう。僕だって不安になろうと思えばいくらでも不安になれる。31にもなって仕事をしていないどころか、12年間も気まぐれな学生生活を送り博士号まで尚遠く。奨学金という名の借金は普通の感覚でいうと驚くべき金額に達している。さらに学位をとったところで物理学者なんてこの世界には有り余っている。

 それでも僕が希望に満ちて楽しく暮らしているのは、僕が単なる危機感を欠いた間抜けだからという為だけではない。どうしてか僕にはある確信があるからだ。その確信がどういった種類の確信なのかはここでは説明できない。それはきちんと向い合ってその人と対話しながらでないと人に伝えることのできない種類のものだ。これを幻だと笑い飛ばす人もたくさんいるだろう。だけどこの世界では本当のところ幻も現実もあったものではない。