自由の象徴。

 「武術の話の続き」という、エントリーを書いたとき、マラドーナのあるプレーが俺にとっては自由の象徴だ、というコメントを貰ました。それから僕はマラドーナのプレーをいくつか探して見て、その後、自由の象徴という言葉について考えた。
 僕は自由という言葉が好きだけど、それ以上に実は自由の象徴という言葉の方が好きなのかもしれない。自由という言葉も自由の象徴だ。

 マラドーナは父の好きなサッカープレイヤーだったので、実は子供の頃にビデオを見たことがある。コメントを貰うまですっかり忘れていた。僕の住んでいた田舎町の中では一番大きくて、ここにはありとあらゆる種類の映画が揃っていると子供の頃信じていたレンタルビデオ店に、週末の夜、父や妹と出掛けるのは大好きなイベントだった。そこで僕が妹とディズニーのアニメか何かを選んでいる時に、父はマラドーナのビデオを持ってきた。
 僕はそのビデオの内容に関して全く記憶がない。ただ、ビデオを見たときにサッカーというのは単なるスポーツじゃないのだと思った。それがどういう感覚なのかは説明できない。今でもサッカーを見るとき、その感覚は時々やって来る。人々がファンタジスタという言葉を聞いたときに心のどこかでイメージする何かとても輝かしいもの。

 自由の象徴というキーワードを使うと、僕は自分の好きなものが比較的上手に整理されるように思う。
 たとえば、サッカーの他に所謂エクストリームスポーツが好きで、それは僕にとってはまさに自由の象徴だと思う。下手だし、そんなに練習もしないけれど、それでもスケートボードやBMXに乗るのは、それらが自由の象徴だからかもしれない。

 と思って、昨日久しぶりにパルクールの動画を見ていたら、ヤマカシの最初の方のシーンに009 sound systemの音楽を被せたものを見つけました。自由の象徴の一つ。




 その後、所要で実家に帰ったのですが、夕飯の後、父がBANFF Mountain Film Festivalって知ってるか、いいぞ、というので調べてみると本当に面白そうだった。久しぶりにパルクールの動画を見た後だったので繋がりを感じる。自然の中と街の中。

 


 そのとき、テレビで北極海を旅する豪華客船ツアーみたいな番組が流れていてサーメ人が映った。前日にフィンランド人の友達とサーメやアイヌの話をしていたので、これもなんだか偶然だなと思った。
 「アイヌの人が自分のオリジンを捨てて日本人の生活をすることはあっても、その逆はないでしょ。世界は一つになるかもしれないけれど、それは融合ではなくて、強い文化が弱い文化を食べるということにしかならないかもしれない」と言った。