deep and high.

 野田恵の弾くピアノから真珠のような物が空間一杯に広がって行く。

 映画「アバター」を見に行くとほぼ満席だったので、代わりに「のだめカンタービレ」を見た。最近映画館なんていつもガラガラだったので、別に大して人もいないだろうと思っていたのは甘すぎたみたいだ。「のだめ」はとても空いていたので、2人で4個の席を占領していたら、その席のチケットを持った人が後でやってきて、でもまあそのまま僕達に席を譲ってくれた。

 のだめカンタービレはとてもチープに演出されたドラマの延長だから、この映画も軽々しいCGで装飾されていて、それらはどちらかというと映画を損ねているような気もする。
 ただ、冒頭に書いたシーンで僕は鳥肌を立ててしまった。それは相変わらず安っぽいCGで描かれたシーンだった。のだめがコンセルヴァトワールの進級試験でピアノを弾いてみせると興が乗った頃にピアノから真珠が噴出す。審査する教官たちもその音に喜ぶ。

 このチープな演出で製作者達が描こうとしたものを、多分僕は欲しいのだ。

 ピアノから流れる音楽を「只の音だ」と割り切ることはとても簡単だし、良く訓練された繊細な耳を持たない人間が、そんな些細な音の違いを追及してどうするのか、とケチを付けることも簡単だ。簡単だし、別にそれだって間違いではない。そういうスタンスだって当然ありだろう。

 でも、たとえばそれらがあまりにも高度で一般人には理解できないとしても、そういった次元で何かを突き詰めるのはやっぱり一つの価値を持つ。のだめの弾くピアノの本当の美しさが、超音楽エリートである審査員にしか分からなくても、それがその審査会場だけで完結していたとしても。

 ただの音楽かもしれないけれど、ただ鍵盤を押さえるという動作に過ぎないかもしれないけれど、僕達はそういった行為を通じてもっと深く遠いところへ行くことができるのだ。

 すべての物事において同じことが言える。

 映画「グッドウィルハンティング」の中で、マッド・デイモン演じる数学の天才青年と、有名な数学教授が2人で黒板の前に座っているシーンがある。二人は黒板を眺めていて、ある瞬間にマッド・デイモンが問題の解法を思い付き、立ち上がって式を黒板に書き始める。その書き始められた式を見た瞬間に教授も解法が分かって、彼も黒板の前へやって来てチョークを持つ。そして二人で一つの式を変形して行って答えを導く。分母と分子にxがあってそれを約分するとしたら分子のxをマッド・デイモンが消し、それとほぼ同時に分子のxを教授が消すというように、ものすごいスピードで二人がチョークを動かし、そして解が得られるとハイタッチを交わす。
 この映画自体はそんなに好きでもないけれど、このシーンはベスト5に入る好きな場面だ。マッドデイモンと教授の2人にしか分からない、ものすごい気持ち良さがあるに違いない。僕も似たようなことは何度か体験している。

 そう、僕はこういうものが欲しい。
 高度に訓練された人間の間でしか共有されない深い喜び。それはきっと真理と呼ばれるものに到る方向なんじゃないだろうか。
 僕には沢山したいことがある。ダイレクトに人々の生活に影響を与える製品を作ったり社会活動をしたりして、世界を変えたいとか、認められたいとかそういうことだって思う。告白するとここしばらくはこういったことの心に占める割合が多きかった。深い世界を見ようとするのは止めにしてもいいんじゃないかと思っていた。だけどやっぱりそういう訳にも行かない。僕はとても深い部分での、この世界の成り立ちを知りたい。