不規則な言葉の羅列。

 その人を待つ間、僕はカフェに入って抹茶オレを飲んでいた。カバンの中にはテキストと論文とノートと本が入っていて、しばらくは本を読むことにする。僕が今読んでいるのはDanny Wallaceの"YES MAN"、少し前に映画にもなっていた、友達のブログにお勧めだと書いてあったのと、それから全てのことに「イエス」と答えるシチュエーションコメディーは絶対に面白いと思ったのでアマゾンで買った。

 YES MANを読んでいると、自分の席の左から中国語が聞こえてきて、前の席からは英語が聞こえてきた。目をやると、左では中国語の個人レッスンが、前方では英語の個人レッスンが行われていた。中国語は中年の中国人女性が中年の日本人女性に教えていて、英語は日本人の僕と同い年くらいの女性が年齢の良く分からない女の人を教えていた。じゃあ関係代名詞に入ろうというような話をしていたので、多分生徒は高校生か何かだったのだと思う。

 「英語では、予約は”取る”じゃなくて”作る”makeって発想なの」

 という一言が耳入ってから、なんとなく僕はその英語のレッスンが気になって本を読みながら時々耳に入るままにしていた。そして思ったのは、やっぱりいちいち全ての文章に解析的な教師の助言が入るのは良くないんじゃないかということだった。そのレッスンは英語の学習じゃなくて、英語の学習ごっこに見えた。

 どういうことかというと、そもそもmakeは’作る’という日本語とは別ものだからだ、予約は取るものじゃなくて作るものだからmakeを使うというのは本末転倒している。makeというのは予約のときにも料理のときにも使う何かそういう感じの動詞なのであって、けして’作る’ではない。僕は英語が堪能じゃないけれど絶対そう思う。日本語で変な発想をワンクッション挟んで、それに見合った英単語を引っ張ってくるというのはなんか変だ。別に彼らは「予約を作ろう」なんて思っているわけではなくて、単に「make a reservation」と思っているだけだ。それ以上でも以下でもない。
 だから、make a reservationというのが出てきたら、それはmake a reservationでしかなく、本来何も説明することはない。予約を取ったことをイメージしてそれで終わりだと思う。そのイメージができないときにだけ、教師が補助的にイメージを与えればよい。でも人はそれでは納得できない。これはこう、と言われただけでは分かった気にならないし指導してもらった気にならない。これはこうだからこう、と説明らしきものを求める。教える方も「これはこう」だけでは教えた気にならないから余計なことをいちいち言ってしまう。

 文法をある言語から抽出した言語学者達のことを偉大だと思う。それはとても重要な作業だと思う。でも、文法が言語体系から抽出された以上、それは常に言語そのものより一歩遅れた存在だ。だから一定レベルのことを超えては文法では説明できないし、言語体系とは文法体系のことではない。言葉は常にルールの外側を持っていて、そこには説明の入る隙間はない。

 いつも不思議に思うことがあるのだけど、文法を無視した単語の羅列が通じたり通じなかったりするのはどうしてだろう。
 もしもAさんがBさんに対して「このペンが欲しい」と言いたいとき、Aさんが日本語の文法を(暗黙知としても)知らなくて「欲しいこれペン」と言っても、Bさんはそれを理解できる。このとき一番重要なのはAさん自身が「欲しいこれペン」を理解できるということだ。Aさんは「このペンが欲しい」と伝えようと思って「欲しいこれペン」と口に出しているので、Aさんが意味を理解できるのは当然なわけだけど、このときAさんが使用した規則は一体なんだろう。根拠のない謎の規則で持ってしてAさんが「欲しいこれペン」という文章を作り、かつAさんがそれを理解できるなら、Bさんも根拠のない規則を持ってしてそれを理解できるのは当然のことにも思える。もちろん「意思⊃発言」だから完全に可逆ではないけれど、結構いいところまで僕達は理解することができて、その能力が何に担保されているのかを考えると正式な文法の力を過大評価しなくて済むように思う。