ギター。

 この間みんなの前でギターを弾いたとき、最近は全く練習もしていないし、ちゃんと覚えている曲がなくて悔しい思いをした。一番熱心にギターを練習していた10年以上前には完全に空で覚えている曲が20か30はあったと思う。

 そう思って、昨日実に久しぶりにブルーハーツのスコアを引っ張り出して弾いてみた。かなり照れくさいことだけど、僕はその昔ブルーハーツというバンドが本当に大好きだったし、夜の木屋町に出掛けて行っては弾いて歌っていた。だからこのスコアブックはボロボロで、昔自分が書き込んだコードなんかを見ると本当に懐かしい当時のことが色々思い出される。すっかり忘れていた好きだった歌を歌うと謎の感傷的気分になったり。10年経ってるなんてほんとになんてことだ。

 僕が道端で歌を歌うようになったきっかけのことを書こう。

 それはとある酷いアルバイトの面接兼講習会だ。あまりにも酷かったので僕は講習会の会場を途中で出た。馬鹿らしいので帰ります、みたいなことを僕が言うと会社の人は怒って僕のプリントを「これも返せ」と取り上げた。会場には何十人かのアルバイト希望者がいて、僕の他にも数人の男女が会場を後にした。

 会場を飛び出した僕達は、初対面だけどそれなりの連帯感を感じていたので、ロビーやエレベーターや道路でしばらく話をしてから帰った。会場は大阪で、僕は京都から、他にも奈良や滋賀から来ている人達がいた。僕が京都からだと言うと、滋賀から来ている女の子は「私は木屋町で友達と歌ったりしてるから、土曜の夜に来れば大抵いると思う」と教えてくれた。

 次の土曜日、僕はMを誘って木屋町へ出掛けた。
 そうそう、Mのことを少し書いておこう。Mは僕の学部同期における数少ない友達の一人で、ギターの師匠でもある。彼がいなかったら僕はギターを弾いたりしなかっただろうし、買うこともなかった。口先三寸の僕は大抵のことを言うだけで実行しなかった。だから「ギターを買う」というのも半分は口からでまかせだった。ところがそのとき僕達は隣り合って大学図書館の情報コンセントにラップトップを繋いでいた。懐かしい記念すべき僕の最初のコンピューター。当時20万円以上したのにpentium1, 64M(まさか32ではなかったはず), 4G, Windows95。僕は見るだけのつもりでまだこんなに大きくなかったヤフオクを見ていた。7000円でクラシックギターが売られていた。Mもいいと思うというので、僕はその場で入札して、そのギターを買ってしまった。僕の記念すべき1台目のギター。

 出品者が大阪の人だったので、僕はギターを取りに梅田まで行った。ウオッチマンの前で待ち合わせて、その場で7000円とギターを交換した。そしてどうしてか大学から遠く離れた場所に部屋を借りていたMのところへ行き、一番大事な最初の手ほどきを受ける。たぶんGCDくらいのコードで弾けるbeatlesのlet it beか何か。自分の手でギターを鳴らして、一応は音楽に聞こえる音が出たときはとても嬉しかった。もしも自分の人生をいくつかのパートに区切るならば、ここにも確実に区切りは入る。大袈裟でもなんでもなく、自分の世界が変わった瞬間だ。

 Mと木屋町を歩いていると、この間の女の子達がギターを弾いて歌を歌っていた。たしか、あらゆる意味での若さと青さと古さを感じるけれど、彼女達はゆずの歌を歌っていた。
 僕達はしばらくそこにいて話をした後、多分なんとなく手持ち無沙汰になって帰ることにした。

 帰り道、土曜日の夜の木屋町を歩いていると、僕の感覚では当時今より沢山のストリートミュージシャンがいて、ポールスミスの前で一人の男が斉藤和義か何かを歌っていた。僕達は立ち止まり、歌を少し聴き、それが終わると会話を交わした。彼は僕らと同じ大学の学生で、父親に捧げるような感じのオリジナルソングを歌ってくれた。
 変なカメラマンが通り掛かったのはそんな時だ。
 彼は僕達の写真を撮りたいと言い、どこからか脚立を持って戻ってきた。僕達は彼の注文通りに3人並んで歌を歌い、カメラマンは脚立に乗ったりしながらシャッターを切った。
 このカメラマンの注文が、僕の人生における「道端で歌を歌った」最初の瞬間だった。3人で一緒に歌える歌がなかったので、何かのサビの部分だけをカメラマンの気が済むまで繰り返し歌った。大袈裟なカメラを抱えたカメラマンが脚立に乗って写真を撮っているので、みんながこっちを見るし、なのに僕達と来たら同じフレーズを繰り返すばかり。一人ではなかったけれど、ものすごく恥ずかしくて、だけどとても楽しかった。

 次の週末、僕達は自分のギターを抱えて出掛けた。
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 追記;この酷いアルバイトの講習会をモデルにして、昔小説のワンシーンを書きました。大体の雰囲気はこんな感じです。

『 僕だっていい加減に腹が立っていた。中川さんが3列目に座っているヒゲを生やした男の人に向かって、あなたそんなのでこの仕事やっていけると思ってんですかあ、頭悪いんですかあ、今からトイレでも行ってヒゲ剃って来ませんかあ、そんなヒゲの顔、お客さん見たら失神しちゃうかもしれないですからあ、と言ったときにその怒りは頂点に達して、そして僕はおもむろに立ち上がった。ヒゲの人は実に人懐っこい人相をしていて、それに比べたら中川さんの方がよっぽど人相が悪かった。僕がもしも客だったら、彼の舐めるような目つきにはどうしたって耐えられそうにない。そういったことを言おうとしたとき、不意に誰かが言った。
「ウンコしたいので帰らせて頂きます」
 部屋の中が一瞬奇妙な静寂に包まれた。排泄の由をこんなに堂々と宣言する、というのはなかなかこの世界で起こることではない。僕は立ち上がってまだ何も言わないまま、声のした方を見た。声の主は男だった。たぶん年は僕と同じくらいで21か22に見えた。
「はああ。ウンコオ? あなたそんな恥かしいことよく言えますねえ。一体どういうつもりでここに来てるんですかあ。これは仕事の面接兼講習会ですよお。遊び半分ですかあ。なめてるんですかあ。そんな奴はさっさと帰ってえ。それからあなた何? あなたあ。立ち上がってえ。なにい?」
 中川さんは僕の方を向いた。
「僕はシカにシカ煎餅でも食べさせてやろうかと思うので帰らせて頂きます。あなたの下らない話を聞いて下品な立ち振舞いを見ていると、無性に大仏様が拝みたくなったので、奈良にでも行こうかなと思うんです。清々しい古都の空気を吸って解毒でもしないと耐えられないので」
 僕はウンコ発言の男の方を見た。彼もこっちを見た。そして僕達はクククと笑った。
「なんですかああ君はああああああああ。失礼なああああああ」
 中川さんは瞬間的にピンクを通り過ぎて真っ赤になった。真っ赤と言うか、それは不健康な黒い赤だった。あと3回くらい僕達が同じことを言えば、彼は血圧が高くなりすぎて倒れてしまいそうにも見えた。
 僕はそのまま折り畳み机と椅子と人が詰め込まれた殺風景な部屋を、すみませんちょっと通ります、と言いながら横切って外に出た。ウンコの男も立ち上がって同じようにすみませんすみませんと言いながら部屋を横切っていた。座っている人達が椅子を前に動かして通路を確保してくれる度に、事務用のパイプ椅子がガチャガチャと鳴った。そして当然だけど、彼らが椅子を元の位置に戻すときにもまた椅子はガチャガチャと鳴った。

 ウンコの男に続いて、二人の女の子と一人の男が部屋から出てきた。椅子がまたガチャガチャと鳴っていた。静かなビルの中で、その音はやけに大きく聞こえた。「はいっ。もう馬鹿な連中は放っておいて先に進みます」中川さんのキーキーした声がした。
「変なバイト」僕は誰ともなしに言う。
「うん、もう最低」
 僕とウンコ男の後に出てきた女の子の一人は耳たぶに付けたピアスのことで中川さんにキーキー言われて泣き出した子だった。
「ごめん。本当は君がごたごた言われてるときにでも助け船出せば良かったんだけど」
 ウンコ男はそう言ってピアスの子に謝った。
「うん、全然いいよ。大丈夫。でも、もーなんか今思うと腹立つよ」
「私も、聞いててすごいかわいそうだった。目茶苦茶言ってたよね、あの人」
 もう一人の女の子は特に中川さんに何かを言われた、という訳ではなかった。彼女は単に中川さんのあまりにもひどい傍若無人に嫌気がさしたのだろう。僕と同じだ。僕も個人的には特別に攻撃をされなかった。
「確かに。目茶苦茶だった。日頃のうっぷんや何かを全部僕たちにぶつけてるとしか思えなかったよ。僕も最後あの人に結構ひどいこと言っちゃったけど」
「いや、あいつにはあれくらいは言わないと駄目だよ。結構みんな清々してるんじゃないかな」
 彼はスケートボードを持っていて中川さんにガミガミ言われていた。当たり前だけど、何も部屋の中で乗っていた訳ではない、彼は単にその日バックパックの後ろにスケートボードを収納していて、そのバックパックが中川さんには気に入らなかったのだ。
「そういや結構きついこと言われてたね」
「ちょっと信じられないくらい。大人になってからあんな風に死ねとか言われたの初めて」
「私も聞いたときびっくりした。あの人頭おかしいよ」

 部屋の中からまたガチャガチャと音がして、キーキーとした声が言った。「それじゃあ始めますよお。まずはいらっしゃいませからあ。イラッシャイマセエー」「イラッシャイマセ」
「もっと元気よくう」キーキー「イラッシャイマセエ」「はいもう一回」キーキー「イラッシャイマセエ」「もう一回」キーキー「イラッシャイマセエ」。「うん、まあいいですう。ちょっと次は一人づつで。一回全員座って下さいい」キーキー。ガチャガチャ。「えっとお、一番前の右の人から、立ってえ」キーキー、ガチャガチャ「イラッシャイマセ」「いいですねえ次ぎい」キーキーガチャガチャ「イラッシャイマセ」「はいい」キーキーガチャガチャ、イラッシャイマセ、ハイ、キーキー、ガチャガチャ、イラッシャイマセハイキーキーガチャガチャイラッシャイマセハイキーキーガチャガチャイラッシャイマセハイキーキーガチャガチャ。』
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