ジル・ボルト・テイラー。

 テレビに脳のイラストが映って、聞けばどうやら脳梗塞の話をしているようだった。話をされている方はJT生命誌研究館中村桂子さんで、話題に上がっているのはジル・ボルト・テイラー博士だった。

 ジル・ボルト・テイラーさんのことを知ったのは最近のことだ。ある人が日記にテイラーさんのTEDスピーチをリンクしてくれていたので、僕はそれを見た。第一線で脳の研究をしていた科学者がある日脳梗塞になる。彼女は言葉も運動能力も失った。通常6ヶ月のリハビリで効果がなければ医者は回復を諦めるが、テイラーさんは母親の介抱によって8年後ほとんど完全な回復を成し遂げた。このTEDスピーチは脳梗塞を起こした自分の脳が機能を失っていく過程を、本人が、一人の脳科学者としてが語ったものだ。

 http://www.ted.com/talks/lang/jpn/jill_bolte_taylor_s_powerful_stroke_of_insight.html

 はっきり言って滅茶苦茶面白いです。
 話は途中から科学ではなくなって、ほとんどスピリチュアルだとかオカルトだとかサイケデリックとかトリップとか呼ばれるような方向へ向かうので、拒絶反応を示す人もいるだろうけれど、僕はもうなんかものすごく真実なんじゃないかと思った。

 簡単にいうと、テイラーさんが脳機能を失うにつれて感じたものは一体感と幸福感だった。僕達は言葉や認識によって世界を切り取っている。ところが脳がそれらの作業をやめると「自分が一体どこからどこまでなのか分からない」という状況になる。全てのものが一つであり、ただ幸福を感じる。これをトリップに過ぎないと片付けるのは早急だろう。あまりにも。
 逆に考えてみれば良く分かる。僕達の脳がこの宇宙になければ、これとかあれとか、ここまでとかあそこまでとか、そういう区別なんてこの世界のどこにも存在しない。

 哲学者の永井均さんは、子供の頃から「どうしてあの人でもこの人でもなく、この僕がこの僕なのか?」という疑問に取り付かれていたと何かの本に書いていらした。これは僕も悩んでいたことがあったので、ときどき人に言ったりしたこともあるのだけど、分かってもらえない人には本当にどれだけ説明しても分かってもらえない。そりゃ自分が自分だろ、で片付けられてしまう。

 どうして自分が自分なのか、という問いは形而上の問題だが、もっと現実的な自分問題として、身体のどこからどこまでが自分なのか、という物質的な問題も挙がる。これを僕は森政弘さんの本で読んだと思うのだけど、まだ子供だった僕には刺激の強すぎる話だった。頭から離れなくなって、しばらく「体がどこからどこまでか」の話しかしなくなっていた。
 たとえば、食べたハンバーグがいつから自分の体になるのか考えてみると、それは永遠に自分の体になんかならないことが良く分かる。腸から吸収されたって、自分の一部ではない、単に自分の中に異物が入ってきただけだ。筋肉の一部にくっついても自分の一部ではなくて、単に異物がくっついただけのことだ。そして、しばらくしたら代謝されて排出される。それどころか、腸も筋肉も、全部そうして外からやって来た異物の塊でしかない。ちょうど川の中に岩を置くと周囲に渦ができるように、僕達の体というのは流れる物質達の中にできた渦でしかない。
 じゃあ、その岩に相当するものは何だろう? 物質は全部「水」の方だから、岩に相当するものは非物質だ。それを僕達はとりあえずシステムと呼んだり、やっぱり気とか魂とか呼んだりもするんじゃないだろうか。

 中村さんは、実は脳なんてないほうが幸福なんだけど、でも我々は脳を持ち、言葉を話し考えて生きていくのです、というようなことをテレビでおっしゃっていて、これは視聴者になかなか理解してもらえないんじゃないかなと思った。
 「全部で一個のなんか幸福なもの」から自分を分離する為の器官が、我々の脳、あるいは体なんじゃないかということです。もうまるっきり原始仏教みたいな話だけど。生まれるってそういうことなんじゃないかと思う。なぜ、わざわざ幸福な一個の何かから分裂して生きるのかというと、それはやっぱり遊ぶためだと思うのです。ヘンリー・ミラーが言ったみたいに、この世は楽園で、僕達はそこで遊ぶために生まれて来た。ゼロが、スタート地点が既に「一個の何かすごい幸福なもの」なわけです。生まれる前も死んでからも。そして、生きている今も、故意に脳でブロックしているだけで、その「何か」はいつもずっと全部の場所にある。