身体性の拡張。

 身体性の拡張とは、我ながら単純なタイトルだなと思うけれど、お気付きの方もあるように最近タイトルをちゃんと内容に関係したものにするよう心掛けています。昔のエントリーを読み返すと、気取った変なタイトルが付いていてどれが何かさっぱり分からなかったからです。

 さて、今から書こうとしていることは、基本的に内田樹先生のブログで読んできたことに僕なりのトッピングを施しただけのものです。僕はその昔2度内田先生にお会いしたことがあるのですが、当時はまだこんなに本も売れていなくて、純粋に武術関係の集まりにおけるホストとしてしか認識していませんでした。後に自分がこんなに影響を受けるようになるとは思いもよらなかった。僕はもともと仏教や禅、哲学で理論武装して宗教の勧誘の人を困らせるのが好き、みたいな捻くれたことろがあったのですが、そういった捻れが内田先生によって上書き強化された感じです。

 では本題に入ろうと思う。
 最近の内田ブログに物凄く面白いエピソードが書かれていました。

『アフリカにはおむつというものをしないで育児をしている集団がある。
 こどもが便意を催したら、「よいしょ」とおんぶひもから下ろして、ぶりぶりじゃあじゃあとうんちおしっこをさせる。
 研究に行ったアメリカの人類学者が「どうしたら、子供が便意を催したことがわかるのですか?」と質問したら、聞かれた母親はきょとんとして「あなたは自分がおしっこしたくなったとき、それがわからないの?」と反問したそうである。』

 凄過ぎる。
 何が分かったのかも良く分からないくらい大きなものを分かった気分になって「そうだったのか」と言ってしまいそうなくらいすごいエピソードだと思う。

 内田先生は合気道の人なので「我々ならそれを気と呼ぶ」と、このエピソードを受けておられます。僕も一応合気道の人なのでそれはとても良く分かる。

 「和合」という言葉は合気道のキーワードで、昔は「相手と一つになる」ということがぼんやりとしか理解できなかった。分かったような分からないような言葉だから、大学1年生の夏合宿で「和合」と書かれた色紙(植芝盛平先生に書を教えていた阿部先生が書いてくれた)を貰ったときもみんなで「和合、和合」と言って笑っているだけだった。

 今では昔よりずっと良く分かる。
 武術では自分の身体を精密に操作することを覚えた後、剣術や棒術、槍術など武器の扱い方を学ぶ。折角鋭い突き蹴りなどができるようになった後、(普段持ち歩かないから実用性もなさそうな)重たい剣や丈を持つのははっきりいって苦痛以外の何ものでもない。でもそれは通過すべき関門であって、そこで修行者は「身体+武器」というシステムの扱い方を学ぶ。武器というのは戦闘で役立つ物であると同時に、体の動きを妨げる邪魔者でもある。その邪魔者と自分自身を一体としたシステムの扱いを学ぶこと、武器を拡張された身体の一部として扱うことは次のステップへ進む前に学ばれなくてはならない(武器を用いない流派では壷を持ったり棍棒を振ったりというトレーニングがある。あれらは筋トレの器具ではない)。

 「身体」から「身体+武器」へと拡張された身体は、次いで敵と相対する。即ち敵を拡張した身体の一部と見なす新しいシステム「身体+敵(+武器)」の扱い方を学ぶ。究極的には自分で自分の頬を殴るのと同じくらいの簡単さで敵の頬を殴るという次元がそこには存在している。あるいは自分で床に転がるのと同じ感覚で相手を転がすことができる。

 言うまでもなく、この「和合」の感覚は一人の敵に留まらず、自分の乗る馬、自分の率いる軍隊、敵の軍隊、地形、気候、そして宇宙全部にまで広がる。だから時々武術家は「宇宙と一つになる」とか「地球の力を借りる」だとか大袈裟なことをいうように聞こえる。でもあれは伊達や酔狂で言っているんじゃありません。
 平和の為に武術を習うというのも、別に抑止力としてではなく、武術というのが謂わば「境界を消していく」行為だからです。天下無敵というのはまさにその意味で、誰よりも強い、という意味ではなく、本当に「敵って何?みんな友達でしょ?」って意味だと思う。きれいごとの理想論でも、理想ならとにかくそこを目指せば良いじゃないかという運動。

 もちろん、何も話を武術に限定するわけではなくて、ほとんどなんでも同じことです。たとえばF1ドライバーは自分のマシンと和合しているだろうし、トップレベルのドライバーは自分のマシンとだけではなくチームや他のマシンやコースそのものとも和合しているはずだ。さらに観客とまで和合できるドライバーがトップに立つだろう。

 このとき僕達は「気」という言葉を使う。「気」の存在を科学で証明しようとかそういう話もあるけれど、気というのは「システムの存在」を概念的に表す言葉だろう。うまく和合している対象と自分の間に「気が通った」と言える。たとえばブラインドタッチでキーボードを叩いているタイピストはキーボードに気を通わせることができているけれど、それはタイピストの体から何かが出てキーボードに入っていくというイメージではない。ただタイピストとキーボードの境界が消滅するというイメージだと思う。

 アフリカのお母さん達は子供と和合している。
 まさか人の便意まで自分のものとして感じられるなんて!
 僕達は本当に予想外のものまで自分の一部として受け止めることができるようです。