不可思議。

 サイエンスの限界みたいなものは、別に科学の嫌いな人々に指摘されるまでもなく、多くの科学者がかなり早い段階から認識していたと思う。それはこの世界を認識する一つの方法でしかない、でも他の全ての方法と同じように、科学という道にも果てしない可能性はある。

 僕が自分の思想や思考のフレームワークを意識し始めたのは、小学生のときに父親の本棚にあった仏教の本を読んでからだ。僕は物事の考え方や、考え方についての考え方みたいなメタな概念をそのときに初めて意識した。それまで僕は単に知識というのは増えていって、究極的な全てを知る状態になる前に時間切れで死んでしまうだけだと思っていた。つまり単なる量の問題だと。でも、そこで考え方というのにも方向があって、その方向が全然違う人には絶対に理解できない概念というものもこの世界には沢山あるのだと知った。

 もちろん、大人になってみればこれは極々当然のことだ。人には人の考え方があって、時として僕達は全く相容れない。まるで違う星の言葉を話すように。でも、当時の僕にとって考え方の考え方なんて考え方がこの世界にあるというのは一つの発見だった。今となっても何故だか全く分からないけれど、僕は小学校4年生のときから進学塾に通っていて、算数の授業中に「ちょっと考え方と変えてみよう」というような発言をして先生に茶化されたのを良く覚えている。みんなが言わないで自動的にやっていることをわざわざ口にしたようでバツが悪かった。僕にとっては新しいわざわざ口にするようなことだったのだ。
 ちなみにこの先生は僕達に理科と算数を教えていて、多分適当にだと思うけれど、僕の母親に向かって「この子は将来必ず理系で大成功します」と言い、その発言は祝福だか呪詛だか、今に到るまで僕の人生を左右している。(さらに蛇足を付け加えると、その先生は僕が高校生になったころ女子生徒にセクハラをしてクビになったという噂だ。)

 とにかく、世界には無数の考え方、世界の見方がある。
 僕は一時期科学という手法が最も良く、最も正しいと思っていた。たぶん。でもそのときにも一抹の疑いを忘れたことは無いと思う。
 幽霊の話が上がったとき、ある時期の僕はその存在を徹底的に否定した。それは現行の科学から演繹しての意見にすぎない、という視点をどの程度残していたのか、今となっては良く思い出せない。思考方法の90パーセント以上が科学に依存していて、その他の考え方は10パーセントも容認していなかったのではないかと思う。

 今はちょっと違っている。なんというか、たとえば死後の世界だって存在するはずだと9割方思っている。死んだら肉体が分解されて終わりだというのが実は無限にある考え方の一つに過ぎないと強く思うし、この意識というものがそう簡単に作られたり壊れたりするようには思えないから。
 幸か不幸か幸と不幸の両方か、僕達のこの世界についての知識というのはほとんど全部誰かの作り物だ。理論もルールも考え方も。知覚さえも自分自身で作った作り物に過ぎない。思考を紡ぎ表現する言葉も。
 そんな中でどこに拠り所を見つけるかというのは400年も前にデカルトがやっていて、だけどまあ僕達は依然としてどこへも辿り着いたように見えず、かといって差し出されたこの宇宙そのものを「これが答えです」と呼んだり、それとか答えってものを定義した時点で答えは見つからないだとか色々分かったようなことを言ってみたり、でももっと科学の魔法で世界を見たり、面白いことをしたいなと思う。