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 僕がはじめて「近しく」という言葉を目にしたのは漱石の小説だか随筆を読んでいるときだったと思う。本当にもううろ覚えだ。「近しく」じゃなくて「少しく」だったかもしれない。どちらにしてもあまり目にすることのない言い回しで、その違和感が心地良く、しばらくその形容をしきりに使った。

 そのとき、僕はこんな言葉の使い方って本当にOKなんだろうか、と辞書を引いたりしなかった。辞書になんて載っていようがいまいがどうでも良かった。漱石なんてビッグネームが書いたのだから間違いだとは思わないし、もしもそれが正式じゃなくて”間違い”だったとしても、漱石が考えた表現なら僕達は日本語にそれを組み込むほか無い。
 漱石は訳語も含めて、多くの言葉を作った(漱石だけではなく、明治の所謂知識人達は輸入した概念を翻訳した際新しい言葉を沢山作った)。
 
 彼に新しい言葉の創造が可能だったのは、何も漱石が著名人だったからではない。単に彼が日本人だったからだ。僕達日本人は、全員が日々の営みとして言葉の新陳代謝に関わっている。意識的にせよ無意識的にせよ(たぶん多くの場合は無意識的に)、新しく作られた言い回し、間違っているけれど便利な言い回しはどんどんと日本語空間中を伝播する。

 最初は誰かが間違いを指摘するかもしれない。
 例えば、すっかり定着した「全然大丈夫」という言い回しは最初馬鹿にされた。でも馬鹿にして「全然は否定を伴うときに使うんだよ」と指摘するような人々でさえ、その意味するところは完全に理解していた。言語の使用目的が意味の伝達であるならば、「全然大丈夫」は間違いだ、と言う人は自分がその意味を理解しているということで既に矛盾を抱え込んだことになる。間違いなら伝わらないはずなのだ。伝わらないことを間違いだと呼ぶのだ。それは間違いではなく、まだ発見されていなかった言葉の使用方法だった。

 僕達は日々、日本語という言語体系を変化させている。ある意味では、それこそが僕達の”ネイティブ”性を担保している。どんなに滅茶苦茶な日本語を使おうとも、それが意味を伝達するのであれば、それは正しい日本語だと言える。日本語に堪能なフランス人に「それって間違ってるんじゃないの?」と聞かれても、堂々と「文法的には間違いでもちゃんと伝わるから、今日本人である僕が実際にそれを使っているんだからOKなんだよ」と反論することができる。

 逆に僕たちは「日本語以外の言語は改造できない」ことになっている。それは他言語を使うとき僕達はネイティブじゃなくなるからだ。さっき書いた例のフランス人に相当する立場に今度はこっちが置かれることになる。下手なフランス語を喋れば「それは間違いだ」とフランス人に指摘されて、こちらとしては問答無用で「そうですか」と修正するしかない。

 ただ、いくつか反例を上げると、シンガポールの人々は英語を若干変化させたシンギッシュと呼ばれる独自の英語を話す。それから「国際英語」というシェイプアップした新しい英語を作ろうという運動もある。こういうのは他言語に思いっきりメスを入れる試みだ。
 僕達はなんとなく気後れしているだけで、絶対に他言語に手を加えられないわけではない。

 長々と前置きを書きましたが、僕は今日から英語で11から19までの呼び方を変えてみようと思っています。実験的に。僕の周りにはネイティブではない英語話者が非常にたくさんいて、たまにだけど fifty と fifteenとか、特に電話口では取り違えることがあって、なんとも不便だなと思うからです。21=twenty one, 35=thirty five などにならって、onetyという新しい十なんとかを表す言葉を作ってもいいのではないかと思うのです。15はもうfifteenじゃなくて、これからはonety fiveというように。ついでにeleven, twelveもonety one, onety twoと読んでもいいことにするといい。10年後には広まっているかもしれません。