こんにちはアメリカ!

 子供の頃、アメリカという国に憧れた。アメリカに住みたいと思っていた。
 大人になるにつれ、いつの間にか憧れの対象はヨーロッパや南米やアジアに変わり、なんだかアメリカという国がとても浅はかでちっぽけなものに見え始めた。とても乾いた情緒の理解されない国に見えた。ハリウッドもディズニーも見なくなって、ゴダールトリュフォーを見るようになった。西海岸のロックンロールの代わりにボサノバを聞くようになった。
 そうしてしばらくスノッブに塗れているうち、どこか遠くからジミヘンの弾く星条旗よ永遠成れが聞こえてきて、僕はお風呂上りにコカコーラを飲んでみた。長い道路を歩いて一回りしてきたような気分だった。僕はやっぱりアメリカという国が好きで、その気持ちが一体なんであれどこかに決着が必要だった。

 子供の頃、広い世界に憧れた。冒険の旅に出たかった。あらゆるものを見たかった。科学者になりたかった。発明家になりたかった。有名になりたかった。世界をびっくりさせてやりたかった。面白いことをしたかった。人とは違うことをしたかった。
 大人になるにつれ、そういった考え方は僕達の時代のイデオロギーを反映したものに過ぎないと理解し始めた。ユニークでも何でもなく、まさしく日本の政府が考えるこれからの日本人像そのものらしいということだった。普通が嫌な普通の人。幸福を履き違えた世代。本当は普通の生活が一番なのに教育のせいで普通が嫌な人々がたくさん育ったと説明された。職業を選んで我侭だから仕事がないのだと批判されて貧困を足元に突きつけられて、一部の人々は長らくぼんやりした夢を見ていたのだ目が覚めたと大人しい暮らしを選んだ。お前達の言う個性なんて個性でもなんでもないし、だいたい個性の一体どこが大事だかそんな惨めな生活で説明できるのか、とプライドを粉砕されたり。普通の幸福に浸る人々の笑顔を見て慌てて家を買ってみたり。
 そうして、別に人並みに暮らせればいいとか熱意のある人が苦手だとか言っているうちに、やりたいことをやって何度もこけて慢心創痍で尚走り回っている人々が沢山現れて、僕は野望を隠すのはもうやめにしようと思った。彼らは世界を引っ掻き回して大笑いしていた。この世界には取り返しの付かないことなんて何一つない。

 封印していた問いを一つ。
 
「僕は何か?」

 この問いを敲き台にして高尚さ自慢の為だけの議論が展開されるのを何度も聞いて、僕は心の中で一人でしかこの問いを問わないことにしていた。でも、そういうのももうやめにした。面倒だからとか恥ずかしいからとかいう理由で何かを言わないのはもう本当に面倒だなと思う。

 ヘンリー・ミラーが言ったように、たぶんこの世界は楽園で、僕達はただ遊ぶためだけに生まれてきた。そして死んでも何も失われはしないし、やり直しも何度でもできるし、安心して遊んでればそれでいいのだと思う。
 貧乏臭く小さくまとまる必要は本当はどこにもない。贅沢は敵だというのは戦争中の政府の為のスローガンだ。資本主義を否定する人々の理屈では「パイは決まっていてそれをみんなで取り合うゼロサムゲームだ」ということになっているけれど、これは全くの間違いだ。世界にある「富」も「価値」も「食べ物」も僕達は無限に増やすことができる。全員が自由で豊かになることができる。