20090715.

 2009年7月15日水曜日。

 セミとカラスとヒヨドリの声が煩くて、早朝尚明るい夏の太陽が窓から眩しくて僕は暑苦しい浅い浅い眠りから目を覚ます。まだ5時半だった。昨日Dの誕生祝から戻って眠ったのは3時前だから、まだ3時間も眠っていない。窓のすぐ外に木々が生い茂っているのは素敵だなと思っていたけれど、自然と暮らすというのはこういうことだ。窓の外ではセミと鳥達が変わりばんこで大騒ぎしていて、彼らにとっては僕の時計なんて何の関係もなかった。太陽が昇れば1日は始まり、日が落ちれば眠るのだ。僕は窓を閉めて自然のサイクルをシャットアウトして、それからエアコンとPCのスイッチを入れて文明の生み出す冷たい風とウェブをハワイから流れ出るラジオステーション。5曲ハワイアンを聴いて、水を飲んで、また浅い眠りに付く。
 夢を見て、忘れる。
 存在の耐えられない軽さを耐える軽さの存在が定義する200年前を生きて死んだあの男の名前。
 そう昨日はDの誕生日だった。アンデパンダンに9時という当初の予定は簡単に急遽変更され、アジアレストランでカンガルーやワニやカエルといった変わった肉をどうしてか食べていると時間はすぐに10時になって、何も知らされなかったAは可哀想に9時にアンデパンダンに来たけれど誰もいなくて45分待ったけれど誰もこなかったから30分サイクリングしてきた、と僕達がアンデパンダンで乾杯をする直前に現れた。それでニコニコといいよいいよと言い、フランス人らしくワインを選んでみんなにサーブしてくれて、あと2ヶ月で彼も国へ帰るのだなと思うとなんだか悲しくなりそうになった。プレゼントを上げて花を上げて乾杯して写真をとって喋っていると閉店の時間になって、Zが1年くらい前からたまに行くという変なバーに行く。暗い雑居ビルの4階にある小さなお店で小さなフロアとDJブースがあって、店は僕達9人でほぼ貸しきり状態ではじめてこのメンバーでみんなしてワーワーと踊った。僕はAに唯一知っているヒップホップの簡単なステップを教えてあげて、それからみんなで輪になって繋いだ手の間をくぐりあってこんがらがって笑うという意味のないことをしてなんだかやけにはしゃぐ。早い人は2週間後に日本を離れるし残された時間はそう多くない。シカゴから来たアメリカ人と話すため英語のできないZがAsに通訳を頼むとAsはZが何かちょっかいを出されたのだと勘違いしてアメリカ人を殴りそうになってお店を出ることになる(僕はこのとき廊下で電話をかけていて様子をしらないけれど、このコンピュータ会社勤務のアメリカ人とは量子コンピューティングの話で意気投合したあとだったのでとても残念だった)。Zは日本語とモンゴル語しかできないし、Asはアラビア語と英語しかできないし、アメリカ人は英語しかできないし、もともとAsはどうかんがえても通訳になり得ない。僕達の分断された言葉。それで「まだ言葉が分裂する前のことを知りたい」とチベットだかどこだかを飛びまわっていらした中沢新一さんのことを強く思い出した。僕達はやがて一つの言葉を持つのだろうか。