cranial nerve.
前回の日記に
『僕は未来のことを予言することはできない。でも、ときどき本当は何もかも知っているような気分になることがある。自分の人生をもう終わりまで生きて、全てを達観したところにいる自分がどこかにいて、その自分の視点がときおり軽やかに入り込むような。』
と書いたのですが、こういうことを言うと必然的にデジャヴュという言葉が浮かびます。それって単なる既視感のことじゃないの? 脳の錯覚でしょ? というわけです。それはそうかもしれないなと僕も思う。でも、だからなんだとも同時に思う。
これはいつも感じる違和感だ。
たとえばオバケの話をしているときに、「それは半分夢で、ただの脳の錯覚だよ」というようなことでケリをつける人は結構多いし、実際に僕も昔は堂々とそんなことを言っていた。
だけど、良く考えてみると脳が作り出した幻影だから、というのは全く何の説明にもなっていない。確かに「オバケを見る」という現象のワンステップ手前のことは説明しているかもしれないけれど、それ以上のものではない。脳の幻覚だかバグだかニューロンの興奮しすぎだかで以下両方の言説が可能だろう。
「オッケー、昨日あなたが見たというオバケはあなたの脳が生み出した幻覚でしかなくて、本当にそこにオバケがいたのでも誰かの怨念が篭っていたわけでもない」
という説明と、
「なるほど、昨日あなたが見たというオバケはあなたの脳が生み出した幻覚ですが、その脳の幻覚作用ははオバケか誰かの怨念によって引き起こされました。だからそこにはオバケがいました」
という説明の二つです。
つまり、視覚に現れた「オバケ」は確かに脳の働きで生み出されたのかもしれないけれど、だからといってそれが「オバケ」の存在に関してその有無を断定するものにはなれない。基本的に五感で感じているこの世界は僕達の”存在”(”脳”と言い切るのは考えが短絡にすぎる。ここでは僕達の”存在”という表現を使わざるを得ない)が作り出している幻想でしかない。だから夢も現実も幻覚も全部同列に扱われるべきだ、とは思わない。この世界には得体がしれないものの”現実”というものがきっとあるのではないかと思う。それが僕達の「現実」という感覚からかけ離れた物であるにしても。それは「五感からの入力より発生した何か」は現実であり、「五感からではない入力により発生した何か」は現実でないという程単純なものではないと思う。
あまり上手に説明できていませんが、脳という言葉に様々なことを還元してそれで満足するのは全くの見当外れにしか見えません。「脳がこう働いたから」というのは「神様がこうしたから」という言葉で思考を停止させるのにとても似ていると思います。
2009年5月23日土曜日
研究休み。
昼下がりに遅めの昼食をつばめで取り、そのままYと近美でラグジュアリー展を見る。イッセイミヤケが飛び抜けてすごくて驚愕する。天才。そのあと服屋や電子部品屋、スポーツ店などに立ち寄る。