one.

 中学1年のとき、同じクラスの女の子が一人死んだ。とびきりかわいい女の子だった。実際僕はその子に対していくらかの恋心を持っていたと思う。彼女の死は突然やって来た。風邪で彼女が休んで一週間経った頃、急に担任が彼女の死をアナウンスした。死因のことを詳しくは覚えていない。詳しい説明があったのかどうかも覚えていない。熱があったのに無理をして家事をしていたら脳炎か何かになって急死した、というような説明があったような気もする。死因が分かろうが分からまいが兎に角彼女は死んだ。まだ13歳で。13歳のとき僕は13歳もそれなりに一人前だと思っていたけれど、30歳になって思うに13歳というのは子供以外の何者でもない。女の子達は泣き、僕は泣かなかった。
 どのようにして彼女の死がクラスに受け入れられていったのか、その過程を僕は全く覚えていない。気が付くと彼女の存在は消えていた。微かに記憶という存在の仕方で各自の心の中に仕舞われた。僕達は当然のようにそれまでと変わらぬ中学生を続けた。泣いたり笑ったりして残りの2年半を過ごすと、それぞれがそれぞれの高校や仕事に行き、多くの関係性は解体されたか、あるいはいつものように心の中に仕舞われた。僕は若くして死んでしまったその子のことをほとんど思い出さなかった。ときどき思い出すと、彼女はやはり13歳で、僕達は大学に行き職に付き家庭を築いている者もいた。もう20年近い年月が流れたのだ。その間に身の回りでは何人かの人が死んだり生まれたりした。生まれるのはいつも赤ん坊だったが、死ぬのがいつも老人とは限らなかった。

 人は年を取らなくても死ぬ。

 死について話をしようと思う。いくつかの国では死について話すのはタブーだが、死というのは謎であってタブーではない。別離は悲しみであるが、死が本当に別離なのかどうかも実は僕達は知らない。知っていることはただ一つ、人が死ぬと肉体は活動を停止して朽ち果てる。

 その他のことを僕達は何も知らない。いくつかの宗教は死について言及しているが、結局のところそれらを信用に値する情報だと査定している人間はほとんどいない。問題なのは僕達にそれらを査定する術がないことだ。だから「これらは信用ならないという査定」自体が信用ならない、という可能性を忘れるのは怖い。何事に関しても他の可能性を忘れることは恐ろしい。面倒ではあるが、僕達の世界には常に無限個の可能性が存在していて、それらの全てに知力を注ごうとする姿勢を我々は知的と呼ぶ。

 当然のことだが、死の後に関しても無限個の可能性は存在している。死を「終わり」だと結論付ける立場は、「なんかすっきりして楽」だけど本当は全然知的でも科学的でもない。
 この世界で何かが真に「終わったり」「はじまったり」することが本当にあるんだろうか。これは何度も何度も言うけれど、僕達は毎日経験している自分の意識も感覚も、それらに関する知識を何も持ち合わせていない。どうやって意識が成立しているのか誰も何も知らない。そして論理的に考えてみればそれらがブヨブヨしたたんぱく質の塊だけで作られるのではないことが簡単に分かる。肉体と意識には関連があるけれど肉体が意識を作っているわけではない。

 僕には死が終わりだとは到底思えない。
 事態はきっともっと複雑だ。

 死について考えるとき、あるいは本当は全て一つだって意見について考えるとき、どうしてかいつも電子に関するある仮説が思い浮かぶ。

 僕達は素粒子を区別することができない。たとえば電子が2個あるとして、その2個を区別することはできない(テクニカルにはある系においてスピンがアップとダウンで区別できるみたいなことはいえるけれど、両方がアップにもダウンにもなれる性質を持っているということまで考慮して)。
 誰の意見か忘れたけれど、電子が全部区別できないのは「本当はこの世界にある電子はたった一つだからだ」とボーアかハイゼンベルグか誰かが言っていた。この宇宙に存在する電子はたった一つ。我々はそれを色々な角度から眺めているにすぎない。その角度の違いが「こっちの電子とかあっちの電子」とかいうことだ。立方体の箱の中にピンポン玉を一つ入れて、箱の各壁面に一つずつ色々な形の穴を開ける。この面には三角の穴を、こっちには丸い穴を、こっちにはミッキーマウスのシルエットを。そうすると、この穴を覗いたときピンポン玉は三角の中にあるように見え、こっちから見ると丸の中に、こっちから見るとミッキーの中にあるように見える。僕達が電子を観測するときも似たようなことをしている可能性は否めない。たった1molの物質中にアボガドロ数個(10の23乗のオーダー)の原子分子が含まれていて、それぞれが複数個の電子を有していることを思うと、この宇宙に存在する電子の数は気の遠くなるようなものだ。立方体ではなく、その電子の数だけ面を持った箱の中に実は電子が一つあるだけで、僕達はその箱の曲がりくねった面を3次元空間と捉えるような宇宙に生きているのかもしれない。