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 もう何年前のことだろう、まだNさんが京大に居た頃「高橋源一郎の集中講義があるから、私それとってるから一緒に出ない?」という誘いがあった。誘いがあったというのは正確ではなくて、本当はもともと誘ったのは僕のほうだった。僕がイベントかご飯か何かに誘うと、その頃急激に猛勉強をはじめた当時の彼女は「ごめんなさい、遊んでる時間がないの、本当に勉強だけで手一杯」ということで、代わりに一緒に集中講義に出るのはどうかと提案してきたのだった。
 そういうわけで、僕は真夏の炎天下を見慣れない京大文学部の建物まで自転車で走る羽目になった。無論、高橋源一郎さんが来るならNさんがいなくても講義に出て(潜りなので、勝手にという形容が要りますが)いたかもしれない。

 樋口一葉とJJとアダルトビデオから日本文学を読み解く作業は圧巻だった。僕は所用で講義には途中から出なくなったのだけれど、明治文学と現代の女性ファッション誌を見事に繋いでしまう流れは実にきれいだった。
 それら講義の内容を今も少しは覚えていて、でも今日はそちらではなく高橋さんが講義の合間に挟んだ雑談のことを焦点としたい。

「僕も歳を取ってきて、でも、中身が若い頃と全然変わらないから、これが見事に、みんなまだ若くて信じられないだろうけれど、体は老いていくけれど、中身は知識増えたりしても、基本的に若いときから全然変わらない。それで、いつになったら老人らしい心持になれるのかと思って、大先輩のもう80を越えている作家に、いつになったら老人の心になりますか、って質問したら、そんなのいくつになっても変わらないし老人の心境になんてならないよ、って言われてショックだった」

 というようなことを高橋さんはおっしゃっていて、その話がずっと心に残っていた。

 そして昨日、入院中の祖母を見舞った際、高橋さんの言っていたことを思い出して、88になった祖母に聞いてみた。

「僕は30になっても、やっぱり、もちろんそれなりに分別もつくようになったし、見えないものも見えるようになったけれど、でも基本的には20の頃と変わらないんだけど、もしかしてこれって88歳になってもこのまま続くの? 心持は変わらず、単に知識と経験は増え体は老いていく、みたいな感じで」

 祖母は、その通りだと言った。何も変わらない、若いときからそのままだと言った。僕はその時一瞬、祖母の目の奥に若い女の子達が持つのと同じ光を見た。祖母は確実に88歳の老人であるが、それは本当は肉体的なことに過ぎないのかもしれない。88歳の人間の肉体を纏ってはいても、彼女は本質的には若いときから変わらぬ彼女であり、僕が知らない70年くらいの昔に青春を過ごした女の子そのものなのかもしれない。年齢というのは単にその程度のものなのだろう。

 お見舞いに行く前日、僕はバイオハザード3というB級映画を見ました。そのラストシーンは主人公とそのクローンが、まだ眠っている無数のクローンと共に「これから私達みんなでそっちへ行ってお前達とはケリをつける」と宣言するものなのですが、それまでの映画の流れも手伝って、自分のクローンで構成された集団というのは実に親密感の高いものに違いないなと思った。僕はきっと自分のクローンとかなり仲良くやっていくことができるだろう。自分が食べようと思っていたパイナップルをクローンの一人が食べても、まあ、あいつも僕なわけだからいいかって許すのではないかと思う。
 ならば、このときふと思ったのは、姿形が似ていない、ただの他人だって本当は同じことではないだろうかということです。クローンというのは僕自身のことではなく、単に姿形が極めて似通っているというだけの存在に過ぎない。他人というのを姿の似ていない遺伝情報のことなったクローンだと読み替えれば(だって形がそこまで本質的だとは思えませんから)、誰にだってそれなりの親近感を持つのが本当のところではないのかと思った。