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 大人になって初めて気が付いて驚くことが当然のようにたくさんあります。たとえば僕は人間の白目というのは固い何かだと思っていました。人形の目に嵌めたガラスの眼球のように、つるっとした表面を持っていて硬質な何かだと。でも実際には人間の白目は結膜の一部で、つまりは目蓋の裏の赤い部分とそのまま繋がっているもので、膜だから動く。指先で目じりを押さえて上下させてみれば、白目を走る細かな血管が指につられて動くのを観察することができる。

 結膜だから白目が意外にぷにゅぷにゅしている、ということに初めて気が付いたとき、僕は鏡を覗き込みながら思った。そうか、もう長い間生きているのに、今まで一度も白目に触れてみてどういう手触りなのかを調べたことはなかったのだと。自分の体の一部で、実に身近なものに、僕はまともに触れたことすら(コンタクトを出し入れするときに接触するくらいのことはもちろんあるけれど)なかったのだ。外側にむき出しになった体の一部分に触れたことがないというのは不思議な気分だった。昔I君が「自動車は作られてからスクラップにされるまで他の物とは接触しない(人の手とかタイヤの触れる地面は覗いて、他のものにぶつかるのは事故だ)、これはある意味驚異的なことだ」と言っていたけれど、白目というのもそういう種類の器官に違いないなと思った。

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 スタジオジブリの映画に「耳をすませば」というのタイトルのものがあります。僕はそれを一度だけみたことがあって、でもストーリーは良く覚えていない。だけど、ストーリーは兎に角としても、実はその映画は僕に結構な影響を与えました。
 映画のどの部分が影響力を持ったのかというと、基本的には丁寧に描写された普通の日本の街並みです。特別にきれいな街でも、風情ある田舎でもなく、極々平均的な現代日本の住宅街や何か。それらは一昔前の僕が批判の対象としていたどうしようもない風景だった。僕はいつも「どうして日本の最近の家ってこんなにペラペラでダサいんだ」「街はどうしてこんなに汚いんだ」「車はどうしてこんなにダサいのばかりが走っているんだ」という風な文句ばかりを言っていた。街はもっときれいになるし、もっと楽しいものにできるのに、どうして誰もそういうことをしないのだろう、どうして最初からクオリティの高いものだけを作るようにしないのだろう。そんなことばかりを考えていた時期がある。
 「耳をすませば」を見たのはそういう時期だった。そして僕は考えを改めた。なんでもない光景が丁寧に丁寧に描写されていて、その描きなおされた普通の街並みは僕の中の認識に関わる経路を変更した。急に街並みがいとおしくなった。もしも整ったヨーロッパの街並みと文化に僕が一つの憧憬を持っていたのだとしたら、日本の持つ混沌を急に好きになった。以来ずっとその感覚は消えない。この世界には様々なものが存在する。好きなものも嫌いなものもあれば、美しいものも醜いものも存在する。だけど、実はそれらは全部誰かが丁寧に描写したとたんに意味を変えるのではないだろうか。何かを丁寧に描写するという行為には「受け入れる」ということに関する強大な力があるように思う。
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