ゼータ。

 少しずつ引越しの準備をしています。古くなった敷布団を捨てたり、もう着なくなった服を思い切って捨てたり。それから、結局普段もBMXにばかり乗るようになったので、古い自転車を人に上げることにしました。
 とはいっても長い間乗らずに置いてあったので、さすがにそのまま人に渡すことはできなくて、久しぶりに自転車の様子を見て手を入れました。この自転車は所謂軽快車で、小径のシティサイクルです、量販されている安い物なのでブレーキはバンドブレーキでキーっとうるさい音を立てるようになっていました。バンドブレーキが音を立てるのは構造上の宿命なので、こうなっては音を我慢するかブレーキを取り替えるしかありません。もちろんブレーキをサーボブレーキに取り替えました。サーボブレーキはバンドブレーキに互換性があるので、音に困っている人は取り替えるのが良いと思います。自転車屋さんで取り替えてもらっても3500円くらいだし、自分で交換するなら2000円も掛りません。ただしタイヤにくっついているドラムはブレーキの度にネジが締めこまれる形になっているのでものすごく固く締まっていて簡単には外せません。インパクトを加えるとかドラムを加熱するとか色々な方法があるようですが、僕は素直にドラムを外すのだけ自転車屋さんの専用工具でやってもらいました。
 それからフロントブレーキとリアのブレーキワイヤーとリアタイヤのチューブを取り替えて、パーツクリーナーを噴いて油を注して、浮いていたサビに還元剤を塗って、ようやくそれなりになった。

 そして約束の日時に自転車を上げたわけですが、なんとも間の悪いことに僕の普段乗っているBMXの後輪がこの日バーストしました。タイヤが破けてチューブがぶにゅっと出てきて、それでやめておいたほうがいいなと思いながらも少し走ると案の定チューブもパンクしてしまった。
 というわけで僕はしばらく自転車のない生活をすることになりました。タイヤはカラーとパターンをある程度ちゃんと選びたかったのでBMXのお店で注文したけれど、今展示会の最中だとかで入荷まで1週間は掛るそうです。

 自転車がないのは不便ではあるけれど、まあなければないでどうってこともありません。必要なら電車やバスに乗ればいいし、少しなら歩けばいい。大人になって、何か悪いように見えることが起こっても本当はそれはそう悪いことでもないし多少不便な状況になっても必ずそれをうまくやりくりできるという確信を持つようになった。これは年を取ることの一つの効用かもしれない。何があってもめんどくさがらなければ絶対に対処できる。

 僕は市バスで大学へ行き、歩いて図書館へ行った。その不思議な感覚は図書館で本を借りて帰り道、二条通りを歩いているときに起こった。僕は突然今自分が何をしているのかが分からなくなったのです。それは「自分が誰で今がいつで、ここからここへ歩いて行こうとしている」ということが分からなくなり錯乱状態に陥ったという心理学的なことではありません。僕は自分が歩いていると思っている地面も自分が動かしていると思っているこの体も自分が移動していると思っている空間のことも何も知らないということを実感として急に感じたのです。知識としてはそれらのことを嫌になるほど考えてきた。僕はこの世界が何で出来ているのか自分の五感というフィルター、あるいはそれに制限された思考を通じてしか理解することができない。それはとてももどかしいことだ。でもそのもどかしさはそれらについて考えるときにだけ現れるものだった。モードが「それらのことを考える」に切り替わったときにだけ立ち上がるもどかしさだった。ところがこのとき生生しく立ち上がった感覚は思考といバッファをなしに直接僕を捉えた。「一体ここでは何が起こっているのだろう?」という強烈な問いが感覚として発生した。僕は本当に空間を移動しているのだろうか? 自分が実は止まっていて世界が動いているのだという可能性を相対性としての単なる座標の読み替えではない意味合いで感じる。

 本当は何が起こっているのだろうか? 僕たちはこの世界の末端にあるプログラムのことをいくらか知っている。あそこにはどうやらこういうif文が書かれているらしい。ここにはdoループがかましてあってインクリメントを10回するようだ。極々限定された部分に関してだけの限定的な知識を持っている。でも、全体のアルゴリズムのことを何も知らない。プラットフォームが何でソースプログラムが何行あるのかということも、それすら知らない。

 ずっと世界のこちら側から世界を眺めてきた。こちら側というのは僕の知覚が作り上げた虚構であり本物である世界のことだ。そろそろ向こうの世界を覗けないかなと思う。きっと向こうもこちらもあったものではないのだろうけれど。それからこことかあそことか、これとかあれとか、全部ないわけだけど。空間も時間も物質も電磁波も、全部僕達が考えたものでしかない。あの人と僕との間に本当は境界線なんて引けないのだろう。
 若干宗教臭い話になってきたけれど、部分的にしかしらない仏教の経典が何を言っていたのか段々分かるようになってきた気がする。仏教なんて古いと思っていたし、やっぱり物理学が発展してきた現代の方がこの世界のことを「良く、より正確に」考えることができると思っていたけれど、でもそうではないことも分かってきた。結局「この世界って本当は一体何でどういううふうにできているんだろう?」という問いに時代背景や科学は関係がない。鋭い洞察力と思考が要であって、科学はそれほど重要な働きをしない。科学の知識というのはこちら側をぐるぐるするだけのことだ。

 当たり前すぎてこの世界が超絶に異常だということになかなか思い当たらない。僕達はこの世界のことを詳しく調べればこの世界のことが分かるかもしれないと考えているけれど、僕達がこの世界を調べるということがどういうことなのかあまり正しく認識していない。僕達はこの世界を調べることはできるけれど、それはけして世界そのものを調べるということではない。映画マトリックスを例えに引けば、僕達はマトリックスの中でどのように物事が起こるのかということを調べることができるし、実際にその知見はマトリックスの内部で有効かもしれない。でもマトリックスの中をいくら詳しく調べても、その外側にある人間バッテリーの世界は知ることができない。そしてこれは否定しようのない事実だけれど、僕達はマトリックスに類するものの中にいる。それは僕達の知覚のことだし、時代のパラダイムのことでもあるかもしれない。誰も僕達の意識のこと、この宇宙のことを知らないのに、僕たちは「何か」を仮定して安心して生活している。意識が脳で作られていることは論理的には不可能に見えるけれど、それが現代の標準的な意識の解釈で、だから脳が壊れれば意識はなくなる、死ねば意識はなくなると多くの人が考えている。でも実際にはその考えには何の根拠もない。体は細胞でできていて細胞は原子から出来ていて、原子は電子陽子中性子でできていて、それらはさらに結局クオークなんかの素粒子でできていて、という考えには実はなんの根拠もない。それは僕達人間流の解釈でしかない。

 
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