地球儀でお風呂の明かり。

 高校生のとき、ある友人が「俺は天邪鬼だから、相手が何かを言うとそれが正しいのかどうか考える前にとりあえず、それは違う、と言ってしまう。それから何が違うのか必至に考える」と言い、僕も似たようなものだったので「僕もそうだ」と返事した。それまで自分がそういう性質を持っているとは知らなかったけれど、言われてみれば確かにそうで、このとき僕は自分の性格を表現する言葉を新しく一つ手に入れた。

 とりあえず、それは違う、と言うことは本当に多かった。さすがに大人になるにつれてそのようなケースは減った。でも子供のときはそれは違うと思うの連発だった。たとえば数学の授業で平行な直線はどこまでも行っても交わることが無いというのを先生が教えたなら、即座に非ユークリッド空間ではそうとも限らない、と言うふうに。大抵のことは黒くても白だと言い張れるだけのロジックがどこかにあるのだということを僕は確信していた。普通に考えて相手が正しそうなのに、それに反射的に「違う」と断言して、その後必至に何がどう違うのか考えるときのドライブ感が好きだった。屁理屈ばかり並べて、今から思えば性質の悪いいたずらでした。

 あるとき「日本は海に囲まれた島国です」という文章が何かに出て来て、それにも僕は違いますと言った。そして「海が日本に囲まれているのです」と主張した。今となってみれば、海が日本に囲まれているというのも、日本が海に囲まれていると言うのも両方正しい。だから本当は海が日本に囲まれているのだという意見は何の反論にもなっていなかった。ただこの屁理屈は奇妙に脳裏を離れず数年に一度何かの拍子に思い出す。
 世界地図を広げて僕達は簡単に日本が海に囲まれていることを見て取る。でも本当は地球は丸いし地図というのは嘘も付く。今度は地球儀を見れば、その時点で海が日本を囲んでいるのか日本が海を囲んでいるのかは明白でなくなる。分かり難い場合は日本をどんどん大きくしていけばいい。もっとシンプルに地球には日本しかなくて、その日本が丁度地球の北半球全部を占める場合を考えてみれば、もうどちらがどちらを囲んでいるなんてことは言えない筈だ。

 地図は地表の影に過ぎない。高次元から低次元への射影は情報を落とす。もしも僕達の宇宙が11次元だとかなんとか、ひも理論や膜理論でいうように見えない次元のことを考えないと分からないなら、物性理論も本当は高次元を見込んだ考えをしないと完成しないんじゃないだろうか。