毎日の物理学。

「この広い宇宙について、僕達が知っていることは極々わずかなものにすぎない」と子供の頃から平気で口にして来た。実際にそう思ってもいた。でも、最近はもっと強く、本当にこの宇宙ときたらわけが分からないものだなと思う。

 もう何度も書いているけれど、どうして僕達は意識を持つことができるのだろう? 青い空を見て「青」を感じ、ジャズだかハウスだかを聞いて「音」を感じる。これは少なくとも現代科学の枠組みでは、脳に対する理解だとかそういう分野的なことを越えて、パラダイムとして起こってはならないことなのだ。だけど、僕達は24時間ずっとその起こってはならないことを経験している。

 形式的には色も音も触感も味も匂いもなにもかも、全部僕達の脳が作り出している幻想に過ぎないというような知識は広く共有されて、それでなんだかみんな納得してしまったような風潮もある。外の世界には電磁波とか空気の振動とか、なんらかの物理量だけがあって、それを元にして脳が「青色」とかを作り出して、それを僕達は感じてるんだって風に。へー、脳ってすごい、って。

 でも、問題は本当に本当にそんなに簡単なものではありません。
 電磁波が目に飛び込んで来て、網膜で電子が叩き出され、それが視神経を電気信号として伝わり、脳がその電気信号を処理して「青」ができます。なんてことは異常です。脳がどれだけすごいとしても、電気信号から「青」だか「赤」だか、色なんて作れるわけがない。電気信号と色の間には絶望的なギャップがある。

 これはちょうど「いくらでもたくさん、全種類のレゴブロックを使って良いから、それでコカコーラを作ってほしい」という注文に似ている。あるいは「好きなだけ沢山の楽器を使って良いから、それらを鳴らした音を組み合わせてピンクと緑のシマシマを作って欲しい」という依頼に似ている。そんなことはできっこないのだ。電気信号を自由に使って良いから、ついでに生化学反応も使って良いから、それで「青」を作ってと言われても、僕たちが感じているこの青を作ることはできそうにない。ここで誤解されては困るのだけど、ここで言っている「青」というのは「青い色をした物」では全然ありません。そうではなくて僕達の主観が感じている、僕達の頭の中に浮かぶ、僕達が視界に認識している「青」そのもののことです。

 「物理量」から「今感覚に登っているこの感じ」を作ることはできない、と言い換えても良いかもしれない。僕達が何かの物理量でできているのなら意識や認識は発生のしようがない。
 でも、僕達には意識がある。それは本当に不思議なことだ。

 だから、たぶん将来的に宇宙の基本的なメカニズムを探るという意味合いでの科学は一度破綻すると思う。僕達が科学とは呼べそうもないものを科学は導入するはめになると思う。
 なぜなら、僕達に意識があることのインパクトは計り知れないくらい大きいからです。

 僕達は意識のことを物理学で説明できそうにない。それも全然説明なんて出来そうにないし、意識が認識している主観を扱わねばならない以上科学にできることなんて今のところ少ししかない。先にレゴの例を挙げたように、物理で意識を解明できないのはほぼ自明に見える。
 だから、最終的な判断として「意識のことは物理では分かりません。それはこの宇宙の、我々の物理とは関係のないところで何かしらの作用によって働いています」と宣言するなら、それはそれでいいのかもしれない。でも、そうは簡単に行かないのだ。何故なら僕達が僕達に意識があることを知っているから。

 世の中には「意識というのは世界の傍観者にすぎない」と考えている脳科学者もたくさんいる。なぜなら意識は科学で扱えないから、法則にしたがって動いている科学モデルに組み込むことができないから。モデルを立てるときには「このパーツはこういう関数に従って、こういう入力が入ってくればこういう出力が出る」ということを(確率的にであれ)記述できなくてはならない。でも意識というのは自然法則の外にあるようなものなので働きをルールで書くことができない。
 そこで脳科学者達は「意識にはアウトプットがない」と考えた。入力はあるから外の世界を見たり聞いたりすることは出来るけれど、でも意識のアウトプットでこの宇宙の動きが変化することはないと。
 これは日常感覚にとっては実に不愉快な考え方だけど、意識に入力があっても出力がない、ということは「意識で何を感じても、それは感じているだけで、何一つその感じ方が物事を変えることはない」ということです。たとえば、目の前にチョコレートがあって、それを口に入れたら思ったよりもまずかったので吐き出したとします。このとき、僕達の感覚では「まずいと感じたから、そのまずいという感じを回避するために”私”がチョコレートを吐き出した」と解釈しますが、意識は傍観者にすぎない派の科学者にとってはこんなのおかしなことで、「チョコレートを脳が認識して口に運び、舌から送られてきた信号を不適切と判断して脳が自動的に口を操縦してチョコレートを吐き出させた。意識の方ではそれを傍観していて、ただ口にチョコレートが入っているときに”まずい”という感覚が起きていた」となります。好きだからしたとか、嫌いだからやめたとか、僕達のそういう主観的な意思は実際の行動には入り込む余地がなくて、脳をコントローラーとした高度な自動機械が条件に従って自動的に動いていて、それを意識ではただ見ていてあれこれあとから感じているにすぎない、ということです。

 こういう考えかたにしておけば、僕達の物理界は物理学で動いていて、謎の意識界にある意識は謎のメカニズムでそれを傍観している、意識は物理で説明できないけれど、他のことは全部物理で説明できるし、とりあえず二つは切り離してそれで良しとしよう、ということが言える。
 でも、残念ながらそうは問屋が卸さない。
 意識からのアウトプットがないのだとしたら、どうして僕達は意識が存在することをしることができたのだろうか? 僕は今キーボードを叩いて「意識」という言葉を書いている。これは物理界で正式に起きている物理的な現象だ。意識というものからのフィードバックが一切ないとしたら、どうして僕は、つまり僕の脳は意識のことなんて書くことができるのだろうか。

 話をクリアにするために自分を示す言葉を使い分けたい。この物理的な世界で物理的にキーボードを打ったりミカンの皮をむいたりしている我々を”脳”と指定し、そういう物理界で起きていることを認識している我々を”意識”と呼ぼう。
 このとき、もしも意識が脳に何かを教えなければ脳はどうして意識のことなんて語ることができるのだろうか? 僕達が意識の話をすることができるのは、あるいは書くことができるのは、それは脳が意識の存在を知っているからだ、脳が意識の存在を知るためには意識が脳にそれを教えるしかない。だから僕達の意識はアウトプットを持っていることになる。僕達の日常的な解釈は部分的に正しいことになる。つまり、この文章は僕の脳が意識と関係なく自動的に書いているのではなく、僕の意識が脳を使ってこれを書いているのだ。

 ということは、意識という物理学の枠組みでは語る事のできないシステムの出力で今宇宙の一部、少なくともこのキーボードとコンピュータの中の電流、ディスプレイから出る光は制御されていることになり、僕のこの研究室という系を外部から眺めればこの系は物理学的に破綻していることになる。なぜなら系の一部が意識という物理学の範疇にないものだから。

 これらから導かれる結論として、物理は、ひいては科学は毎日の生活において既に破綻している。だからどうだってわけではないですが。僕はやっぱり物理学の手法で世界を見ることをやめないし、何かが具体的に変わるわけではないけれど、とにかく僕達はわけのわからないものすごい毎日を生きています。