みんなにお金をあげよう。と大臣は言いました。

 ホリエモンがブログで、定額給付金は大金をかけて集めたお金(集めないとできないことがあるから集めた)を大金をかけてばら撒くというバカバカしい政策だけど、どうせ実行されるのだろうから、ならこういうのはどうか、ということでみんなが定額給付金を寄付してNPOを作り、それぞれが一票を持って集まったお金をどこ(他のNPOやNGO)に出資するかネット投票で決める直接民主主義の実験を提案している。2兆円がばら撒かれるのだから、寄付する人がどれだけいるか分からないけれど1000億くらいは最初に集まるのではないか、という考えらしい。

 面白いアイデアだと思います。
 定額給付金がバカバカしいのかどうか僕は判断できませんけれど。たしかに集めた物をばら撒くのは無駄みたいだけど、時間軸を考慮して「過去に集めすぎちゃった分を元に戻したい」ということだってあるかもしれないと思うからです。

 さて、僕が今日書こうと思っていることは、このアイデア本体とは関係がなくて、お金を使うって一体どういうことなんだろうという問いです。どなたか経済に明るい人がいらっしゃったら教えていただけると幸いです。

 最初に疑問を感じたのはお金を特に「政府が」使う場合です。大金をかけて集めたお金を大金をかけてばら撒く。このときの「大金をかける」というのは具体的にどのようなお金の動きになっているのでしょうか。お金が労働の対価であるとシンプルに仮定すると、大金をかけるというのは「日本人の労力の総量からより多くを使う」ということになるのだろうというのはぼんやり分かります。お金の割り振りというのは即ち労力の割り振りのことだろうと思います。

 ただ、面倒なので貿易、旅行及び投資投機FXなど、ありとあらゆる海外との経済的なやりとりを排除した、いわば鎖国モデルを立てたとき、日本国内で日本人がお金を使うと何が損なわれて何が得られるか良くわかりません。政府がお金を使うというのは、政府が何かの製品を買ったり、公務員に給料を払ったりすることで、製品を買ったお金は企業に入って従業員に渡り、公務員の給料は公務員も国民だから政府に集めたお金が人々の下に戻るということでしかないように見えます。そのお金はさらに人々の間をぐるぐるしたり税金として政府のもとへ届けられたりします。でも、当然今は日本を経済的に閉じた系だとしているので日本にあるお金の総量は変化しません。減りも増えもしない。だから、政府がお金を何かにたくさん使ってしまったとき、僕はそれを凶弾しなきゃいけないのかどうか本当のところは良く分からないのです。先にも書いたように、労力の割り振りだと思えばなんとなくはわかるのですが、いまいち釈然としない。

 モデルをもっと究極に単純化してみましょう。
 鎖国状態はそのままに、加えて。
 日本人は全員農家で米を作っていて、しかも米は完全栄養食で米しか食べない。水も飲まない。病気も怪我もない。服も着ない。家もなくて外で寝る。つまりこの世界では大事なものはお米しかない(愛とか恋とかは考慮していません)。
 お米も出来不出来があるので、足りない人は余っている人からお米を借りて、どれだけ借りたのかそれぞれで記憶していた。
 ある日、それぞれが覚えるのはややこしいので、「お金」というものを作ってお金でお米の貸し借りを管理しようということになった。1円が1グラムに対応していて、お米の貸し借りが劇的に便利になった。
 さて、このお米国家日本が、「豊かになる」とはどういうことでしょうか? 日本が豊かになる方法は一つしかありません。それは「毎年とれたお米が少し余ってそれがどんどんと蓄積されていく」ということです。
 蓄積されたたくさんのお米とお金を管理するために、一部の日本人が米作りをやめて「政府」というのをはじめました。政府の仕事をしていてはお米はできないのですが、彼らも当然お米を食べなくては死んでしまうので、「みんなの役に立つ仕事をしているのだから」ということで、お米をみんなからちょっとづつ分けてもらうことにして、それに「税金」という名前を付けました。政府のお陰でお米のやりとりがとてもスムースになったり、さらに今までは次の収穫まで食べ繋ぐお米とお金がなくなると死ぬしかなかった(善意人情友情というものを考慮していません)のが「生活保護」という形でお米の支給を受けられるようになり、人々は以前より安心して暮らせるようになりました。
 ここで「政府が大金を使う」というのは、今まで日本国民の10パーセントが政府をやれば良かったのに無駄な理不尽な問題を持ち上げてその解決の為にさらに政府の仕事をする人を増やし、国民の20%を政府の仕事に使ってしまうような状態を指すのかもしれません。そうするとこの年のお米の収穫は、農民が90パーセントから80パーセントに減るので当然ダウンします。これは国益を損なっていると考えることができます。

 僕達が現実の世界で言っている国の豊かさってこれと似たものでしょうか?
 それと、どうして国家間でお金の価値が、ひいては労働の価値が違うのでしょうか。 


2008年11月7日金曜日;
 海外ドラマを見ていると時々、夜になればこの街にはここしか飲食店がないとばかりに職場の人も友達もみんな集まってくる店があって、あくまでドラマ演出の一環なんだろうけれど面白い。それで金曜の夜なので大学の友達と軽くダーツバーに立ち寄って帰る。

2008年11月8日土曜日;
 Sちゃん、Kとランチのつもりが信じられない長話で夜中の2時になる。

2008年11月9日日曜日;
 夕方4時から大文字に登る。兵庫、大阪からわざわざM君とSちゃんも来てくれる。日没から夜になるのを見る予定だったけれど、生憎の曇り空で夕暮れは見えない。I君がハプニングに見舞われあまりに面白かったので腹がよじれて笑い転げしばらく立てない。
 帰りにおでん屋へ行くというので行くと定休日。代わりに傍にあったダイニングカフェみたいなところへ入るとなんと入り口でTさんが迎えてくれて吃驚する。その辺から一挙、見知らぬ店がホームに変わりつつあったのだけど、良く物を落とす店員の女の子にテーブルを動かしてくっつけてもらって席を確保し、メニューがややこしかったので最初控えめに頼んでいたのがいつの間にか頼み過ぎる。料理がひとしきり出揃ったところでTさんが上がってきて「無茶無茶頼むからてんぱった」と額に汗で言われる。案の定食べきれず、締めのはずの釜飯をおにぎりにして持って帰る。満腹になった割には安く済んで、店を出るとオーナーらしき人が戻ってきて、Yちゃんと再会を喜び会うのでまた驚く。3年前に一緒に働いていたとのこと。京都は狭い。

2008年11月10日月曜日;
 夕方、色彩の研究をしている友達の被験者をする。久しぶりにデザイン経営工学科の演習室に足を踏み入れて変な気分になる。

2008年11月11日火曜日;
 造形思想論が民芸運動モダニズムの話に移る、漱石にどう繋がっていくのか楽しみ。従姉妹が入籍したらしい。おめでたい。

2008年11月12日水曜日;
 寒くなってきたのに着る物がないので夕方に服を見に行く。欲しい物がなにも見つからない。idギャラリーに立ち寄る。流木の作品でなんと生まれ故郷静岡の海岸からこの大量の流木を運んだという。