僕がベジタリアンになったわけ;その4。

 動物は友達だ、なんて書くとこういう反論が来るかもしれない。
食物連鎖のこと知らないの? 僕達は食べたり食べられたりすることで成り立っているわけだから、肉を食べないのは不自然だ」と。

 ときどき、ベジタリアンになりましょう、みたいな本やサイトには「肉食は食肉産業の陰謀だ」みたいなことが書かれていて、それは言い過ぎだと僕も思う。確かに市場を拡大するために沢山のイメージ戦略を図ってきたことは図ってきただろうけれど、それにしたって僕達の祖先は大昔から獣を殺して肉を食べてきたのだから、肉を食べるというのが人類にとって実に自然なのは間違いない。人類の祖先が本当にサルだとしたら、サルまで遡ったっていいだろう。サルは木の実やなんかの植物も食べるし、昆虫などの動物も食べる。知らない人もいると思うけれど、イノシシだとか比較的大きな獣だって集団で襲って食べる。それどころか強い種類のサルは弱い種類のサルを殺して食べる。

 だから肉を食べることは人類にとって極めて自然なことです。なんといってもサルのときから食べているわけだから、それこそ長い歴史があり、肉を食べることに関連した文化だって発達した。

 「自然」「文化」。この二つはマジックワードだと言ってけして過言ではないと思います。その昔下らない教会は免罪符を発売して大儲けした。現代において自分の利益を守りたければこの呪文を唱えればいい。「自然、文化」って。それはもう効果覿面。でも、どうしてこの呪文がこんなに良く効くのだろうか? それは二つとも宗教だからだ。

 僕は宗教の定義を良く知らない。宗教の定義どころか宗教自身のことも良く知らない。だからこんなことを書くと宗教学者なんかに怒られるのかもしれないけれど、僕は宗教というのは「ある前提を決めてしまって、そこから下は疑わない」というスタンスのことだと思っている。ドグマを決めて、そこはもう疑わない。疑うと冒涜ということになる。そしてドグマの上でだけ色々なことを考える。

 自然が素晴らしいという人は「自然は素晴らしい」という前提を疑わない限り、単なる自然の盲信者にすぎない。ときどき同じことを書いているけれど、僕は自然がそんなに素晴らしいとはとても思えない。こんなにたくさんの生き物が殺し合わなくては生きていけないなんて、こんなクソッタレなシステムのどこが素晴らしいのか理解できない。たしかに海も空も大地も森もきれいだ。自然界はすごいものをたくさん作り出した。でも、全てを肯定する気には到底なれない。その素敵な景色は食物連鎖に支えられている。それっていくつの痛みと悲しみと死が支えているのだろう。

 本当に自然ってそんなに素敵だろうか。
 こんなに悲しみに満ちたシステムじゃなくて、もっと他の方法だってあったんじゃないだろうか。

 文化だって同じことだ。
 文化って言ったって何もかもが素晴らしいわけじゃない。文化だからイルカや羊を殺すのも素敵なのだろうか。血の一滴まで大事に使うからってあわれな生き物を殺すことに素晴らしい文化なんて形容が相応しいのだろうか。他に生活していく手立てが見つかれば、そのときなくなるべき文化だってたくさんあるはずだ。それにどんな「文化的」価値があろうが、死と悲しみがそれを支えるなら、そんなものは全然素敵じゃない。文化だからってなんでも許されるわけじゃない。アフリカの28カ国では女の子が生まれるとクリトリスが切除される。爪や髪の毛じゃないから当然痛いし血も出るし、病気になったり死んだりもする。後遺症で気持ちいいはずのセックスがただの拷問になったりもする。でも、これが「文化」だという理由でなかなかなくならない。そんな「文化」なんて消えてなくなればいい。

 どんな言葉だって、僕達はその言葉を使うときにそれが何を意味しているのか吟味しなくてはならない。何かの言葉やラベルを盲信することは悲劇的だ。
 だから、自然も文化も肉食の理由にはならない。

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