僕がベジタリアンになったわけ;その3。

 今週末、友達の結婚式があるのですが、僕がベジタリアンになったと書いたので食事をベジタリアン食に変えてくれた。とてもありがたいし、加えてどんなものが出てくるのか楽しみです。

 さて、前回僕がベジタリアンをはじめた理由の一つは不買運動だということを書きました。ならば、当然ですが、僕は他の人たちにもあまり肉を買わないようにしてほしいと頼まなくてはなりません。たとえば僕一人がケンタッキーフライドチキンを買わなくなったからといって酷いニワトリの飼育がなくなるわけじゃない。でも、これはかなりの難問です。「食べ物のことまでとやかく言われたくない」とか「ベジタリアン教徒がついに布教活動を始めた」とか「男のくせに食べ物で細かいことを言ってみっともない」とか、そういう風に思われることは必至だからです。だから多くのベジタリアンは「私は私、あなたはあなただから、私はお肉を食べないけれど別に気にしないで」と言うことになる。

 さらに、これも当然ながら、ベジタリアンも一個の主義主張に過ぎないので、人を巻き込むことには節度が要求される。「肉はおいしいし、牛や豚がどんな目にあおうが、貧困の国でどれだけ餓死する人がいようがそんなのどうでもいい。これは俺の人生だ」という人だってたくさんいるし、そういう人たちと全面戦争というのは多大なコストがかかってできたものではない。

 だから、本当を言うと僕は自分がどうするつもりなのか、まだ良く分からない。でも、少なくとも進んで肉を食べないということで「動物は友達だ」と言うためのステップを一つくらい上れたのではないかと思う。
 僕は動物がとても好きな子供だった。そして肉を食べるときに何にも考えたりしなかった。クリスマスはいつもケンタッキーフライドチキンだった。皿に載っている肉が生き物の肉であることは当然知っていたはずなのに実感はなかった。最近の都会っ子はなんにも生き物のことを知らない、魚の絵を描いてというとスーパーで売っている魚の切り身を描く始末だよ、まったく、という感じのステレオタイプな「今の子供は自然を知らない」の話を笑い飛ばしていたけれど、結局は僕だって同じことだったのだ。肉がどうやって食卓まで到達したのか、実際には何一つ知らなかった。

 ある日、父親が箱に入った毛蟹を買って来た。木箱の中にはおが屑か何かが入っていて、そこに大きなカニが生きたまま埋もれていた。それが食べるために売られていて、そして父親は食べるためにこれを買って来たのだということは分かっていたけれど、でも僕は「これは食べないで飼う」と主張した。10分後カニは鍋に放り込まれて茹で上がり皿に載って出てきて、僕はそれを食べた。もう抵抗はなかった。お皿に載ってしまえば同じことだ。そして、僕は食べるということはこういうことなのだと納得した。僕達は殺して食べる、そうやってずっと生き延びてきたのだから、かわいそうだけど仕方が無いのだと。自然界だってそうじゃないか。
 だけど、動物は友達だと素直に言っていいのかどうか分からなくなった。

 でも、肉を食べなくても全く健康に生きていけるなら、それなら肉を食べなければいいし、そのとき僕は比較的素直に動物は友達だということができる。ベジタリアンになった理由の一つはそういうことだと思う。堂々と動物は友達だって言えたら随分素敵だと思うのです。

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