僕がベジタリアンになったわけ。

 20世紀物理学おけるスーパースターの一人、リチャード・ファインマンはその著書「ご冗談でしょファインマンさん」の中で、デザートにはチョコレートアイスを頼むことに決めている、と述べている。そうするとデザートを選ぶときに迷わなくて済むからだ。もちろん、これは彼にとってデザートの優先順位が低かったということにすぎない。もしもデザートが大好きなら、その度にメニューをしっかりと睨むのは楽しいことだし、その人にとってそれはとても重要なことに違いない。ファインマンの主張は、全ての物事に神経を使うなんてできっこないから、だから自分のなかで優先順位の低いものについては、もうこれと決めてしまって労力をさかないようにするという方法もある、という簡単な示唆にある。ファインマンはそれまでデザート選びに苦労していて、チョコレートアイスに決めてしまうことでそこから開放されたというわけだ。

 さて、先日書いた通り、僕はベジタリアンになって、ぐんと食べ物の選択肢が減りました。10分の1くらいになったのではないかと思います。ところが、意外に苦労はなくて、以前よりかえって気楽に食べ物を買うようになった。肉は買わないと決めてしまえば、それはそれで楽なものです。

 ベジタリアンになったと人に言うと「慣れるまで大変だろうけど」ということを結構言われるのですが、なぜかそれも全くありません。僕がもともとそんなに肉を食べなかった、フルーツが大好きだった、ということも関連しているのかもしれないけれど、僕はこの日記にベジタリアンになろうと思う、と書いた日にまるでカチッと音を立ててスイッチが切り替わったみたいにベジタリアンになったようです。どうせ僕のことだから、2、3週間もすれば元に戻るだろう、と思われてもいるようですが、別に我慢して肉を食べないという風ではないので、元に戻る可能性もあまりないと思います。我慢とかではなくて、なんだ食べなくて良かったんだ、と開放された感じです。

 実家に連絡をとる必要があったのでメールを書いて、そのついでに「ベジタリアンになった」と書くと、予想はしていたけれど母親は驚愕して「何かにだまされてるんじゃないの」と返事を送ってきた。まるで宗教か何かだと思っているのだと思うし、そう思うことも良く理解できる。僕もずっとベジタリアンって気難しそうだしややこしそうだし、考えも偏ってそうだし、聞く耳持たずな感じだなと思っていた。でも、そうじゃないんです。マジョリティーをもって正常とみなし、マイノリティーは変人に分類するのが常識なので、その観点からするとベジタリアンはマイノリティーで変人です。だから変人だって言われても仕方ない。でも頭がおかしいわけではありません。

 食事というのは人が生きる上でとても重要なことだから、僕はここで自分の立場を表明しておこうと思う。
 僕はベジタリアンになったし、自分から好んで肉や魚を食べることはしません。でも、もともとそんなにストリクトな性格ではないし、場合によっては肉も魚も食べます。大事なデートがベジタリアンであるが為に台無しになったり、せっかくのパーティーが台無しになったりするのは嫌です。人間はかなりの程度食事を共にするという行為で結ばれていて、僕はそこを捨て去ることはできない。たとえば僕の恋人が「ベジタリアンなんてやめてほしい」というなら、それなら僕はベジタリアンなんてあっさり辞める。特に何かの覚悟を決めて臨んだわけではないです。僕の友達で「じゃあこれから冬なのに鍋とかどうするんだよ」とか「パーティーどうするんだよ」とか思っている人はそんなに心配しないでください。基本的に僕は僕だし、べつに3日前までの普通に肉を食べていた記憶が消し飛んだわけではありません。

 僕のブログを断続的に読んでくれている人は、つい3,4日前の日記を読んで「この人はドイツのベジタリアンのパンフレットを読んで急にベジタリアンなんて言い出して単純な人」だと思っているかもしれない。でも僕がベジタリアンという存在を意識するようになってから自分がベジタリアンになるまで、実は1年くらいの時間が経過しています。加えて、何事もそうであるように、ずっとずっと子供の頃から今までの生活の中にその種はあったのだと思う。

 とりあえず、その1年近くということは今すぐに示すことができて、以下は僕がこのブログ上で去年の11月13日に書いたものです。


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she never eat meat.

 ドイツにいるYちゃんに勧められて、「いのちの食べかた」という本を読んだ。そうだ、Yちゃんのブログにはこのブログからリンクが張ってあるので、もしも宜しければ「読後感あるいはエッセイ」というのを見てみてください。

 「いのちの食べかた」の著者は森達也さんという方で、基本的には映像、ドキュメンタリーを作っている人です。たぶんオウム真理教の信者を撮ったドキュメンタリー『A』が一番有名なのではないかと思う。

 本の内容は、屠場とか部落差別に関するもので、大まかなところは知っていました。だけど、僕はこの本を読んで随分大きな衝撃を受けた。
 僕達が毎日のように口にしている肉類は、牛や豚や鶏を殺して解体したものだ。日本人が年間に食べる肉の量は膨大だろうし、毎日毎日屠場ではたくさんの動物が殺されている。毎日、誰かが僕の代わりに動物を殺している。それは分かっている。と思っていた。

 でも、「分かっている」ということに関して、僕はあまりにも注意が足りなかった。「分かっている」はときどき、ときどきどころか多くの場合「思考停止」のサインだ。本当はこの世界は複雑だし、何かが「分かる」ということは有り得ない。有り得ないのに僕達が「分かった」といとも簡単に口にするのは、「もうこれ以上このことは考えたくない」からに過ぎない。

 僕は屠殺について考えることを放棄していた。そんなことを考えても仕方がないじゃないか、別に具体的な行動を起こすわけでもないだろうし、と言われるかもしれない。たしかに僕が屠場のことを考えたところで、牛や豚が救われるわけではないだろう。だから、僕が何かを考えたところでそれが世の中にとってプラスに働く可能性は極めて低い。

 しかし、逆のことは十分に起こり得る。逆というのは、「考えを停止することが世界にとってマイナスになる」ということだ。基本的に、人類が引き起こしてきた悲劇というものは「全員が思考停止状態に陥った」ときに起こっている。だから、少なくとも一部の人々は思考が停止しないようにしなくてはならない。ある程度の数の人々がしっかりと考えていれば、物事は最悪の事態を回避できるはずだ。僕は別にその”考える人役”にしゃしゃり出るつもりはないけれど、これも歴史が教えるように「他の誰かがやるだろう」とみんなが思っているときに悲劇は起こる。まるでつまらない説教みたいだけれど、一人一人がちゃんと考えることは人類の滅亡を防ぐ重要な手立てなのだ。日々の思考というのは小さなことで、まったくの無駄にしか見えないけれど、本当はとても重要なものだ。村上春樹が雪かき的と呼んだように。別に雪かきをしても家は建たない。でも雪かきを毎日しないとある日急に屋根は潰れる。

 森さんのメッセージはとても強かった。この本は屠場に関する本だけれど、僕は「考えよう」というストレートなメッセージと、ひいては「考えれば世界は良くなる」という希望が強く読めた。児童書という性格もあって、記述がとても丁寧でダイレクトだ。一部引用してみると、

(以下引用)
”すべてが終わってから、誰かが言う。「どうしてこんなことになっちゃたんだ?」そこで皆で顔を見合わせる。責任者を探すけれど見つからない。それはそうだ。責任者は全員なのだ。でも誰もが、いつのまにかそれを忘れている。
 だから、しつこいと思う人がいるかもしれないけれど、何度でも書くよ。知ることは大切だ。知ったなら忘れないように、思うことを停めないように、何度でも深く心に刻もう。”
(引用終わり)

 考えることは尊いとか、偉いとか、そういう話ではなくて、考えることが人類にとって必要なのだという切実な書かれ方をこの本はしている。社会のどこかに問題があるとか、誰かの所為でこんなになった、とかではなくて、全員が責任を共有しているというスタンスで説明が成されている。僕はあまり社会について書かれた本を読まないけれど、こんなに説得力があってかつ力強く平和を志向した本ははじめて読みました。

 ついでなので、僕達日本人が2004年一年間に食べた牛と豚の頭数を書いておこうと思う。

 牛: 1,267,602頭
 豚: 16,183,495頭

 126万頭とか1600万頭とか、ものすごい数だ。そりゃあ日本人は1億3000万人もいるわけだけど。
 ニワトリは何頭か分かりませんが、消費している肉の重さは豚とほぼ同じです。だから豚の頭数よりも確実に一桁、下手をすれば二桁多いはずですね。

 さらについでに以下はYちゃんのブログから引用です。

(引用はじめ)
”少しだけ具体的に説明してみると、約1kgの牛肉を生産するのに、16kgの穀物が必要です。
私たちが1�sの牛肉を食べたところで、何日生きられるでしょうか。それを穀物にかえると、ずいぶん効率がいいことが分かります。たくさんの人を養えるからです。
豚肉を生産するのに必要なエサのエネルギー(カロリー)は、それを食べて人間が得るエネルギーの5倍以上、牛肉に至っては30倍以上必要です。

いま、地球上で7人に一人が餓死寸前です。
それなのに、家畜におなかいっぱい穀物を食べさせ、殺して肉にして、その肉で養える人間の数はごくわずかです。
しかも、肉を多く食べることで肥満や、心臓病、ガンなどのリスクが高まり、そのために薬品を使わなければならなくなるとすると、もう無駄の数珠繋ぎですね。

(引用終わり)

 部分を抜き出すと誤解を招き易いので、念の為に言っておくと、彼女は別に肉食をやめろと言っているわけではありません。

 だけど、肉を食べるというのは本当はとても悩ましいものだなと思います。

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 ここに出てくるYちゃんというのは、もちろん3,4日ほど前の日記に書いたドイツのパンフレットを翻訳してくれたYちゃん(ゆいちゃん)のことで、彼女は間違いなく僕に多大な影響を与えた。そのパンフレットが最後の一撃になったことはたしかなので、ドイツの知らない誰かが作ったちいさな紙切れは日本で僕に作用をもたらしたことにもなる。
 ゆいちゃんの他に、もっと長いあいだベジタリアンをしている友達が京都にいて、この二人がいなければ僕はベジタリアンなんて考えもしなかったに違いない。そして考えたとしても「本当に栄養が足りなくなったりしないのか、大丈夫なのか?」という疑問が解消されなかったと思う。そしたら怖くてとてもベジタリアンなんてできたものではなかった。ポール・マッカートニーベジタリアンだとかカール・ルイスベジタリアンだとか、ハリウッドスターとか、そんな有名かもしれないけれど遠くの人がベジタリアンであるなんてことより、身近な友達が実際にベジタリアンであることの方がずっと説得力がある。

 それにしても、ついこの間、夏休みで京都に来ていたゆいちゃんの隣で僕はチキンをほうばっていたのに、物事というのはときどきあっさり変わる。ただ、それは見かけ上のことであって、水面下では着々と準備が進んでいたのだろう。1年間ときどき色々考えて、そして3日前に臨界が来たということだと思う。

 本題である「理由」をまだ書いていないし、それに付随して自分がベジタリアンになるだけで収めるつもりはないということを書きたいのですが、すでに随分な長さになっているので次回に回します。

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