Education is an expensive proposition.

 一昔前、パウロなんとかさんというイタリア人みたいな名前の人の「反社会学講座」というような名前の本(ほとんど何にも覚えていない)が流行っていました。
たしかに社会学の中には好き勝手なことを言ってるだけにしか見えないものがときどき見られます。でも面白いときは面白い。
 内田樹先生のブログが面白かったのでそのまま引用しました。

(以下引用)
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90分間お時間を頂戴して、どうして子どもたちは学びを拒否するようになったのかという論件を、80年代以降の消費文化と市場原理から説明する。
話の内容はみなさんご案内の通りである。
子どもたちが学びを拒否するのは、それが消費者として当然のふるまいだからである。
教師は学校教育のコンテンツの有用性や意義を六歳の子どもには理解させることができない。
子どもたちが「まだそれを理解できない」という当の事実こそ彼らが学校に通う第一の理由なのである。
ふつうはこれで話が済む。
しかし、消費社会ではそうはゆかない。
子どもたちはまず消費主体として自己規定する。
消費主体であるならば、六歳児であっても、商品についてその有用性と意義について説明を要求する「権利」があり、「義務」がある。
その商品の使途を知らない商品を購入するということは消費者には許されない。
だから、子どもたちは「これは何の役に立つんですか?」と問う。
「ひらがなを学ぶことに何の意味があるんですか?」「算数を学ぶことに何の意味があるんですか?」
教師はそれに答えるべきではない。
いいから黙ってやりなさい、というのが教師の言うべき言葉である。
というのは、教師自身、どうしてそのような教科に有用性があるのか、よくわかっていないからである。
自分の教えている教科がいったいどれほどの可能性を潜在させた知的活動に結びついているのか「よくわからない」というのは教師であるためのたいせつな条件である。
私は自分が教えていることの意義と有用性と適用範囲について熟知していると嘯くような教師は(老師の言葉を借りて言えば)「学ぶことを止めてしまった教師」である。
学ぶことを止めてしまった教師から学ぶことは(不可能ではないが、たいへん)むずかしい。
すぐれた教師は自分が教えていることについて「自分は十分に知らない」ということをよくわきまえており、それゆえ、自分が教えていることにどんな意味があるのか、いまだ確実なことが言えないでいる。
だから、「先生の教えていることは何の役に立つんですか?」と訊かれてもはかばかしい答えができない。
「さあ、何だろう。先生にもよくわからないね」というのがおそらく望みうる最高の回答であろう。「いいから、黙ってやりなさい」
しかし、消費主体としての生き方をすでに内面化した子どもにはこの回答は理解不能のものである。
商品を購入するときに、「売り手」がその有用性と意義を「買い手」に説明できない場合、その商品は「無価値」なものと判定される。
消費主体としては、それが合理的である。
無価値であれば、もとより勉強する必要はない。
子どもはそう結論する。
だからといって、子どもの「何の役に立つんですか?」という問いに子どもにもわかる答えを処方しても、事態は少しも変わらない。
それは「学校というのは、子どもにもその有用性や意義がわかる商品を扱うところである」という理解に子どもを導くだけである。
となれば、消費主体のその後の仕事は一つしかない。
それは、その商品を「最小限の対価」で手に入れるためにはどうするか工夫する、ということである。
商品を「買い叩く」ための基本は当該商品に対する欲望をできるだけ示さないことである。
だから、子どもたちは可能な限り授業に集中せず、教師に対する敬意表現を手控え、「学びたくない」というメッセージを全身でアピールする。
それは学校に来たくないということでも、学校で教わっている教科が無意味だと思っていることでもない(現に学校には来ているし、教科の有用性も理解している)。
彼らの関心は「どれだけそれを安い代価で手に入れるか」なのである。
使用価値の高い商品をかなうかぎりの安値で手に入れる消費者が「賢い消費者」だとされているからである。
だから、もし学力をほとんど身につけない状態で(四則計算ができない、アルファベットが読めない、漢字が書けない)大学卒業資格を手に入れた子どもがいたとすると、その子どもは「きわめてクレバーな消費者」だったということになる。
論理的にはそうなるし、現実的にももうそうなりつつある。
世間では一流とされる大学を卒業していながら、「こんなことも知らないのかよ」と仰天するほど無知な若者たちが簇生しているが、その無知を指摘されても、彼らはまったく動じない。
むしろ、「だって、オレ、ぜんぜん勉強してなかったですから」とそのことをほとんど誇らしげに語るのである。
ぜんぜん勉強しなかった(ので、幼稚園児程度の学力しかない)けれど、一流大学を出たというのは、いわば「五円玉一個で自動車を買いました」というのに類する「賢いお買い物」なのである(それは、小学校高学年程度の情緒の発達段階であるにもかかわらず、現実には就職し、結婚し、子どもまでいるという「中身は子どものままのおじさん・おばさん」たちの大量発生と同根のものである。これもまた「市民的成熟のための努力抜きで、市民としての権利を行使できる立場になれた」という点では「賢いお買い物」なのである)。
消費者マインドで教育にかかわるということは、そういうことである。
だから、子どもが消費主体として教育の場に登場することを許してはならない。
それは学校が破壊されるだけでなく、子ども自身を「自己破壊」のプロセスに押しやることだからである。
教育者の急務は市場原理、消費文化の教育への浸潤を全力をあげて防ぐことである。
子どもたちを「同時代のドミナントイデオロギーから守ること」、それが教育の存在理由である。
学校は対抗文化の拠点でなければならない。
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(引用終わり)
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