ハローなんて気楽にいってはみたものの。

 なにかを考えるときに頭の中でしている声は誰の声だろう、と時々思う。骨導でいつも自分が聞いている自分の声に似ていると言えば似ているけれど、そうではないような気もする。僕がこれまでの人生で作り上げてきた誰かなのだろうか。

 僕がこの日記に書いていることのほとんど全ては最初の一文から始まっている。作文が最初の一文から始まるというのは当然のことだけど、そういうことではなくて、ある瞬間にその謎の声がある一文を突然言うので、僕はその一文を書き、そうするとあとは自動的に作文が書きあがる。

 運の悪いことに、まれにそれが日本語ではなくて英語であることがある。たぶんこれは海外ドラマの影響で、ここしばらく見ているgrey's anatomyでは必ず各回の冒頭と終わりに誰かのモノローグが入るので、そのモノローグの感じがなんとなく好みだとついつい真似をしてしまう。特に主人公Greyの声としゃべり方は、きっとこの人はこの話し方のお陰で主人公に抜擢されたに違いないと思うほど独特なので随分な影響を受けた。
 そういうときは苦手だろうが恥ずかしかろうが英語で書くほかないわけだけど(ニュアンスは翻訳できないから。たとえば町田康の小説を英語に翻訳することを考えてみると良く分かる)、英語を使うときに立ち上がってくる別人格の自分というのもなかなか興味深いなと思う。

 興味深いというか、日本語よりも英語を使っているときの自分の方が好ましいような気分すらする。何人かの友達からも同じ話を聞くので、これを感じているのは僕だけではないと思うけれど、日本語で会話しているときよりも英語で会話をするときの方が(うまく話せなくて不便というのに目をつむると)楽だ。その場を支配している言語が日本語であるか英語であるかで、場の親和性というのには差ができると思うし、英語の方が圧倒的に高い親和性を見せると思う。

 たとえば、日本語には英語の"hi"に相当する言葉があるだろうか。「こんにちは」「どうも」は明らかに丁寧すぎる。「よっ」とか「おす」は無礼すぎる。職場やなんかでときどき時間帯を構わず使われる「おはよう」はまあまあ近い気もするけれど明らかに違う。
 hiみたいにユニバーサルに使えて、短く発話するのが簡単な挨拶というものを日本語は持たないのではないかと思うのです。その代わりに会釈というものがあるけれど、無言で頭だけ下げるというのはあまり近しい印象を与えるものではないしコミュニケーションの起点にもなりにくい。

 どちらがいいとか悪いとかいう問題ではないけれど、hiのあと躊躇なくファーストネームを交換してはじまる英語の会話というのは本当に楽だと思う(相性だとかは別の問題として)。ときどきI君と話すのだけど、Oは僕の研究室に海外から来ている研究員でいわば僕やI君といった学生より身分も年齢も上で偉いわけです。それを普通にビール買って鴨川で花火しようとか荷物運ぶから手伝ってと言えるのは、もちろん彼の人格によるところもあるものの英語のお陰だと思うのです。これが日本人の研究員ならば「○○さん」と呼んで色々気を使っていたと思う。Oはfriendだけど、○○さんを紹介するときは「友達」という表現はできない。

 僕が精通している言語は日本語だけだし、そこそこ知っている言語も英語しかない。だから世界の色々な言語における「親和度」がどれくらいなのかは分からない。でも、もしかしたら英語がこんなに世界中で使われているのは、その政治的経済的学問的な勢力図によるものだけではなく、実はかなりの数の人々が英語で会話するのが「なんだか楽かもしれない」と感じているからなのではないかとも思う。