熱気球。

 (全くまとまりがないので書き直すと思います)

 木で作られた清潔な、防腐剤も何も使っていない建物に入ると、木の良い香りがして、そして心が落ち着く。やっぱり木はいいな、なんて思ったり。

 でも、少し考えてみればこれは変なことではないでしょうか?

 なぜなら、「いいな、落ち着くな」なんてペタペタ触れているその木材は木材であって立ち木ではありません。つまり死体です。かつては生きていた者が切り倒され乾かされ切り刻まれたその後の死体です。

 なぜなら、「香りがいい」と呼吸しているその匂いはフィトンチッドで傷ついた植物が身を守るために出しているものだから。僕達が怪我をしたとき血液やリンパ液を出して対応するように、植物はフィトンチッドで細菌を殺そうとする。

 したがって、ストーリーとしては全然平和なものではありません。僕達は生き物の死骸で作った建物の中に入り、死して尚発散される防衛のためのにおいを嗅ぎ、その上で「落ち着く」と感じているわけです。もちろん、人間にとって心地良いことであるには違いないけれど、これは動物園の狭い檻に入れたゾウやキリンを見て喜ぶような残酷さと無邪気さに近いと思います。

 何が言いたいのかというと、我々の感覚というのは、かつて自然の中に暮らしていた時代の記憶にかなり強力に裏打ちされているということです。理性やなんかより遥かに強力に。

 少し話しはとんで、ときどきこういうことを書いているので「この人は神経質なうるさい人だな」と思われる方もたくさんいらっしゃると思いますが、今のところ僕達は「携帯電話は危ないけれど便利だからリスクには目を瞑って見なかったことにして暮らしている」というところだろうなと思う。
 携帯電話というのは、新薬の開発と同等の厳しさで査定すれば、到底市場に出せる代物ではないだろうなと思います。

 僕達のこの生身の身体というものは、どこまでのテクノロジーを許容できるのだでしょうか。どこまでのテクノロジーを許容できるかというのは、つまり生物としての人間のキャパシティのことで、たとえば食べ物に関しては僕達はなんだかんだ言っても「自然に育まれたもの」を最上とするわけです。どんなにハイテクでおいしい調味料を作ったって、そんなのにはあまり価値がない。ドラえもんに出てくる道具はすごいけれど、のび太が涙して食べた「100年後のお菓子」というのにはどうしても違和感を感じてしまう。確かに調理の技術も何もかもがどんどんと100年進化してすごくなるかもしれないけれど、僕達の体というのはそんな人工の要素が多い食べ物に反応するのでしょうか? 遺伝子組み換えでとても甘くなったトマトよりも普通のトマトの方がなんかいい、というのが生物として僕達が背負い込んだセンスではないかと思うのです。

 化学調味料よりも昆布の出汁が良くて、養殖よりも天然の方がいいというのは単に味だとか安全性のことを言っているわけではないように思う。歪な物がなんとなく嫌なのだ。僕達は自然の一部であって、そこに属するものを心地良いと感じる。そういった意味で僕達は液晶ディスプレイよりも紙媒体を好む。単に目が疲れるとかそういったことだけではないはずだ。
 実は僕達はもうこれ以上遠くへ行きたくないのではないだろうか。