あのラインをたどれ!

 僕は子供の頃から小説を読むことがとても好きでした。今から思えば実にちっぽけな町の本屋で選びに選び、親に頼んで本を買ってもらっていた。子供のときは本を読むという行為が一体どういう行為なのか考えたこともなかった。僕はただ本を読み、物語の世界に入っていた。

 でもあるときふと「本を読んでいる自分」を意識してみると、それは実に奇妙なものだった。物語は消えて、僕は単に紙に書かれた文字列を辿っている。でも耳をすませば物語は消えたわけではなかった。頭の斜め上あたりにそれは存在していて、でもその進行は僕が文字を読むこととは別の次元で進められているようにも見えた。

 考え始めると事態はますますややこしくなる。どうやら僕は所謂想像力を働かせて書かれている文章から映画のようなイメージを作り出しているわけではないようだった。断じて言うけれど、物語を読むという行為は文章を映像と音声に起こす行為ではまったくない。映像とも音とも違ったものがストーリーを進めていく。

 文章というのは1次元で進んでいくけれど、前から順番に片付けていけばいいという単純なものじゃない。
 たとえばこういうのはどうだろうか。

 「しかたないなあ。じゃあこの犬はうちで飼うことにするよ」
 と中島はまんざらでもない声で言った。

 どこにでもあるような平凡な文章で、どこにも不思議な点はないはずだ。
 でも良く考えてみると、この文章を読んで何かのシーンをイメージするときの時間軸ってちょっと変ですよね。
 当然僕達は文章を前から読むので、最初にカギカッコの中身を読みます。ところが、この時点では僕達はまだこの台詞を誰が口にしたのか、またそれがどのように発せられたのかを知らないわけです。では、カギカッコを読んでいる最中、僕達は一体何をイメージしているのでしょうか。チェシャー猫の残していったニヤニヤ笑いのように、主体のない表情を想っているのだろうか。それとも、単に台詞の発話者が分かるまでそれをバッファに仕舞いこんでいるのだろうか。

 さらに、実は読者は「このあとに発話者に関する情報が書かれているのか」「発話を形容する情報が書かれているのか」ということすら知らない。だから単純に発話に関する情報を待っている、というわけでもない。
 たとえば、さっきの文章は

 「しかたないなあ。じゃあこの犬はうちで飼うことにするよ」
 と中島は言った。

 であっても良かったわけです(まんざらでもない声で、を抜きました)。
 こう書かれていたのであれば、読者は中島がどういった様子でこの台詞を口にしたのか自分勝手に想像するほかありません。人によってはしょぼくれた声を想像し、人によっては奇妙に明るい様子の声を想像するかもしれない。

 もう一度書きますが、僕達はカギカッコの中を読んでいる最中、カギカッコの後ろに何が書かれているのか、または書かれていないのか、を知りません。ということはこの段階では、僕達は「発言の様子を勝手に想像してしまっていいのか、それとも著者が書いているかもしれない形容詞が出てくるのを待つべきなのか」すら決められないということになります。勝手に「明るいようす」を想像したのに、「しぶしぶ」みたいな形容が出てきたらそこで想像をやり直しにしなくてはならないし、形容を待って何の想像もしないまま読んでいて何の形容も出てこなければその部分は実に殺風景なものになります。

 この手も足も出ないような宙ぶらりんの状態に、僕達はどうやって対処しているのでしょうか。結構勝手にどんどんと想像して、もしも異なった形容が出てくれば修正する、というのが最も妥当ですが、だとすると読書というのは本当に忙しい作業だなと思います。
 本当にどういったことが脳の中で行われているのかは別にして、僕はいくつかの作文で意図的にこういった文章の持つ不可解さを利用しています。前の文章に戻ってもう一度読まないと意味が取れないような文章です。でも、自分では先にイメージが出来上がっているので一度読めば意味がとれて、実際のところ他の人々がどういうふうに感じているのかは分かりません。成功しているといいけれど。