hypothetically.

 たとえば、僕があるカバンを5000円で買ったとする。そのカバンにノートや論文やカメラやザイル(笑うと思うけれど僕は小学生のときから何故かザイルを持ち歩いている)を詰め込んで大学へ行くと、ある友達が「新しいカバン買ったんだね」と言い、僕はどこでいくらで買ったとか、そういうことを答える。するとそれを聞いていた別の人が、「あーあ、そのカバンならあそこの店で3000円で売ってたよ」と残念そうに告げる。
 こういうとき、僕はだからなんだと思う。

 6万円の家賃で狭い部屋に住んでいる人に「6万も出したらもっと良いところがあるのに」と言ったり。10万円の航空券を買った人に「格安チケット探したら5万で行けるのに」と言ったり。
 それらが純粋に情報として与えられるときは別に構わない。でも、そこに「もっとちゃんと調べてからにするべきだったんじゃないのか。私はあなたよりも有益な情報を持っている」というニュアンスが込められているとげんなりする。特に、その「損」をしてる人がそのコストを納得して払っている場合、本人がそれでいいと言っているのに「あなたは他の人と比べて、相場と比較して、損をしているのです」と力説している人をみるとうんざりする。あなたと同じような年齢の同じような能力の人は年収がこれだけですよ。これより低いなら損してるから転職しましょう。みたいな。そういうことを言う人は、人を転職させることが仕事なので、多くの人が転職すればするほど顧客が増えて儲かるだけだ(クリエーティブな仕事に転職しよう、とか、もう世も末だと思わざるを得ない)。

 ある人がその商品を10万円で買い、ある人が1000円で買ったとしても、それぞれが納得しているなら別にそれでいいはずだ。他人がとやかく言う問題じゃない。それに、ここには自動的に「10万払う代わりに1000円で買っていたら99000円のお金が余ったはずで、それで他の物も買えてハッピーだった」という暗黙の仮定が導入されているわけだけど、残りの99000円でハワイのパックツアーに行って飛行機が墜落して死んだかもしれない。その昔、 辰吉丈一郎薬師寺保栄と対戦して破れたとき、実は左手の甲を骨折していたことが後から分かった。辰由丈一郎というボクサーは左のジャブを最大の武器とするボクサーだったので、多くの人が「もしも辰由の左が骨折していなかったら?」という”もしも”を語った。それを受けて本人は「ボクシングに”もしも”はない」ときっぱり断言している。そういうことだ。僕達はここにいて、仮定の話なんてただの妄想に過ぎない。もしもあのときこうだったら、そうだとしたら今より良かったのか悪かったのかすら判別することはできない。