infinity.

 日本語版ファインマン物理学の第5巻は量子力学について書かれたものなのですが、その最初の方にこういう記述があります。

量子力学のことを考えなくても、古典論の範疇でだけ考えても、この宇宙の振る舞いは非決定論的である」

 どういうことかというと「物事の振る舞いは確率的にしか決まっていない」という量子力学が誕生する以前、ニュートン力学を中心とした古典物理(相対性理論を含みます)では「ある時刻における宇宙の全データが、つまりあらゆる粒子の位置と運動量が分かれば、その後のことは全部計算で分かる。現実的には全データを得ることはできないから、計算を実際に行うことはできないけれど、でも、計算できないだけで、本当は何もかもがこれからどうなるのか全部決まっている」という機械論的世界観がドミナントな立場でした。

 高校生くらいのとき、部屋から比較的近く見える山を眺めていて、急に愕然としたことを今でも忘れない。その日は強い風が吹いていて、山肌の木々は枝や葉を大きく揺らしていた。僕は「当たり前だけど、この無数にある葉っぱだとか木の動きというのは、木の剛性だとか風の強さだとか方向だとかによって決定していて、当たり前だけど、全部物理法則に従って動いているのだ」と思って頭がくらくらした。どこにも嘘はない。適当にそれらしく動いてごまかしている葉っぱは一枚もない。見渡す限り、全ての木々が法則の通りに動いている。それどころか見えないものも、この宇宙に存在するものは全部法則の通りに動いている。僕が整えないで起き抜けのまま放っておいた布団の形もそこに出来たどんな小さな皺も。全部だ。今下水管の中で割れた泡の飛び散り方も、中国から飛んできた黄砂の着地地点も。全部法則の通りに動いているだけで、もしかしたら全部宇宙ができた瞬間から決まっていたんじゃないだろうか。

 もちろん、そういった考えを打ち消すには量子力学を持ち出すしかなかった。当時僕は量子力学なんてほとんど知らなかったので、なんだか知らないけれど、非決定論的な物理学があるらしいから、それが「全部決まっている」という閉塞感を消してくれるのだろうと思っていた。

 ところが、量子力学というのは、もしかしたら「非決定論的宇宙」を肯定する最強のツールになるかもしれないけれど、かといって「僕達が自由意志によって生きている。未来を切り開いている」ということまでは肯定するものではない。ということが茂木健一郎さんだか竹内薫さんだかの本に書かれていた。
 最近はテレビや本で大活躍だけど、この頃、茂木健一郎さんと竹内薫さんはまだそんなに有名ではなくて、僕は「ちょっと怪しい人だ」と思いながらも、彼らの本を好んで読んでいた。
 どうして自由意志が肯定されないかというと、「確率的に、ランダムに決まるならそんなものは意志とは呼べない」からです。

 意志というのは存在することが難しすぎる。何かの入力を吟味して、そして「自立的に、自発的に何かの決定をする」という機構は物理学的に考えてポジションを持つことが難しい。
 決定論的な、つまり機械論的な理論を用いるなら、Aの次に起こるBというのは単にルールに則って決まるので、もちろん、ここには何の自発性も存在しない。あるのはプロトコルだけだ。
 だからといって、非決定論的な理論を持ち出して、Aの次に起こるBは適当に決まる、というのであれば、そんなランダムさが自発的な意志であろうはずもない、それは単なる出鱈目だ。
 だから、僕は人間には自由意志なんてものはないと思っている。
 でも、そう信じたくはないし、僕たちには自由意志があるのだと信じたい。幸いにも、僕達がこの宇宙に関して知っていることなんて雀の涙ほどもないので、いつかの未来には自由意志を認めるような理論ができるかもしれない。それは理論を越えた何かかもしれないけれど。

 閑話休題
 僕はここで自由意志の話をしたいのではなくて、最初のファインマンの意見に関して書きたいことがあるのでした。

量子力学のことを考えなくても、古典論の範疇でだけ考えても、この宇宙の振る舞いは非決定論的である」

 古典論で考えるなら、がちがちに法則で縛られたこの宇宙の振る舞いは絶対に決定論的だろうと僕は思っていた。でも、ファインマンはそうでもないという。どうしてかというと、僕達は何かの物理量を完璧に知ることができないからです。ある物理量Xを測定して、その結果が12でした。というのは便宜的なことに過ぎなくて、もっと精度の高い計測をすればそれは12.3435546564とかになって、さらにもっと精度の高い計測をすれば12.3435546564764899958473687874899987372200000000000000000012230222200002344887753とかになるけれど、もっと精度の高い計測をすれば...
 永久に終わりません。
 これは測定の問題ではなくて、もはや数学の抱える問題だともいえる。ある数を絶対的に指定するには無限桁の情報が必要だからです。

 科学が始まって以来、人類はこのように測定の誤差に向かい合ってきたので、誤差伝播の法則など、誤差を評価する数学的な手段はそろっています。そして、それらから明らかなように、誤差というのはちょっと放っておくととんでもない速さで成長して、あっという間に情報を破壊してしまう。
 だから、僕達は古典論の範疇でも未来のことを正確に計算することなんてできっこない。

「ちょっと待て」
 と思われた方がたくさんあるかと思います。
「今は、もし仮に、全部のデータが正確にわかったら、って話じゃん」と。「実際に計算できるかどうかという話なんてしていない」って。

 僕はそういう風にファインマンに言おうと(心の中で)したのですが、すぐにことはそんなに簡単ではないことに気がつきました。

 ある静止した粒子の位置を完全に知ることを考えましょう。結局、高い精度で、という話になると量子力学の話になってしまうのですが、ここでは完全に量子力学は無視します。ある粒子がどこかに存在していて、その位置を知りたい。位置を指定するには当然数字を使うわけですが、その数字というのは正確にあらわすために無限桁まで必要です。

 問題は、この無限桁というところです。
 以前、僕はこのブログで「実無限と可能無限」について書きました。簡単に説明しておくと、
「実無限」というのは「本当に無限桁までの数字がある」という立場で、
「可能無限」というのは「実際に無限桁までの数字があるんじゃなくて、無限桁まで計算する手段があるだけ」という立場です。
 たとえば、円周率3.141592...が、本当に無限に続く数字である、というのが「実無限」で、何桁目まででも計算のできるアルゴリズムはあるけれど、計算前に決まった無限桁までの数字があるわけではない、というのが「可能無限」です。

 だから、「実無限」の立場をとるのであれば、粒子はあるどこかに存在している、ということができるけれど、「可能無限」の立場をとるのであればそんなことは言えない、ということになる。
 つまり、可能無限の立場では古典論の範疇でも粒子の位置は不確定なのだ。

 実際には量子力学を僕達は持っていて、物体の位置なんていうのは決まっていないことを知っているので、上記のような考えはほとんど役に立たないけれど。
 ただ、僕のこの考察が正しいとすれば、ファインマンは可能無限の人だったのだといえるのではないかと思います。最初は、こういうことを少しひねると、哲学で争われている実無限可能無限の議論に決着を与えることができそうな気がなんとなくしたので書き出したのですが、それは浮かびませんでした。