since when have you liked flowers?

 「カギ括弧で括られた文章は無視してください」と彼は書いた。

 これを読むかもしれない10年後の僕へ。
 もうすっかり忘れているかもしれないけれど、このブログというものに書かれていることは別に日記なんかじゃない。当たり前だけど、日々は文章に書き残せるほど単純じゃないし、もしかすれば時々は記憶を引き出す助けにはなるかもしれないけれど、ここには書かれていないことが、思い出されることがないからといって起こらなかったわけではないし、逆にここに書かれていることがその脚色と共に起こらなかったことの記憶を作り出すかもしれない。
 それから、これはもっと大切なことだけど、感情を示したものにせよ、考えを示したものにせよ、それらは僕が思ったり考えたりしたこととぴったり一致するものではない。これも当然のことだけど、言葉でそれらのことをぴったりと表現することはできない。常に何かが多すぎるか、少なすぎるか、方向がずれているか。だから、今僕が書いている、この文章自体も、別に僕の何かにぴったりしたものではない。その自身と言葉との乖離こそが思考を進めているのだ、と書いてみたけれど、僕は別にそんなことは思っていない。自身と言葉の乖離、というところまで書いて、そのあとはなんとなく良いような気がして、乖離こそが思考を進めているのだ、と勝手に書いてしまって、それは只の言葉の組み合わせでしかなく、思考でもなんでもないのだけど、修正案も浮かばないし、別にそういうことを言っても悪くはないようだから、だからそのままでもいいかと先に進めているだけで、今もそんなことを言いたかったわけではないのだけど、やっぱり書き直そうかなと少しは迷いながら、もちろん、なにもこのセンテンスに限らず、今書いた書き直そうかというのも書き直そうかと思っているし、すべてのセンテンスに同じことが言える。つまり、作文というのは何かの結論に向かうものではなくて、僕にとっては迷いの層を一枚一枚深く重ねていくことに他ならない。
 つまりこういうことだ。日本語として可能な言葉の並べ方が、ある言葉を置き、次に選べるのが仮に100通りしかないと仮定して、ある単語から作文を始めるとき、二つ目の言葉を選ぶのは100通りだから、ここまでで100通りの可能性があり、その中から一つを選んだわけだからその確率は100分の1、3番目で10000分の1、4番目で100万分の1、5番目で1億分の1。指数関数的にオーダーが上がって、原稿用紙一枚分の言葉が、その並びが選択される可能性はもう限りなく0に近い。さらに、最初の一言が選ばれる可能性は一体どれだけレアだっただろうか。数えられないくらい多くの可能性の中からある言葉の配列を選んだということは、つまりそれだけの迷いの海に潜り込んだということに他ならない。それが無意識の行為であったにしても。
 という意見にはあまり意味がないかもしれませんね。

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