indistinguishable.

 土曜日の夜、久しぶりに実家でご飯を食べたりお酒を飲んだりしていると、Yちゃんから「お気に入りのラジオが壊れたから診て欲しい」とメールが来て、昨夜大学でそれを修理した。単なる接触不良だったので、いとも簡単に直ったのですが、もしもこの故障原因がより深いところにあった場合、僕はどれくらいのコストを掛けて修理しただろうと思った。お気に入りのということだから、そこそこのコストは掛けてでも修理したのかもしれない。

 原理的に、電子部品がその機能のほとんどを担っているようなものは、直せない、ということがありません。最悪でも部品の特性を一つ一つオシロか何かで測定して、それが正規の値でなくなっていれば、取り外して、新しい素子に交換すれば良いだけのことです。もちろんこれは、原理的には、の話であって、実際には部品の数が多ければそんなこともしていられないので、基盤を焼いて、すべての部品を買ってきて、全く同じ新しい回路を組んだほうが早い。そして、こんなことを言えは実も蓋もありませんが、それなら時間も労力もお金も、新しく同じものを買ったほうが圧倒的に安く上がる。

 もっと大きな問題は、果たして新しい同じ回路がもとの回路なのか、というアイデンティティの問題です。
 たとえばコンデンサを一つ取り替えるだけで済んだなら、僕は「それを修理した」ということができます。でも、回路を丸々作り直したなら、「それを修理した」と言えるのでしょうか。「はい、お気に入りのラジオ修理したよ」って言えるのでしょうか。「中身は丸々交換したんだけど」

 そういえば、僕の今使っているテレビは、そのデザインが気に入って手に入れたものの、あっさりと2ヶ月で壊れてしまい、苦肉の策としてブラウン管も何もかも別のテレビのものと入れ換えました。つまり、機能的には元のテレビの面影は全くないわけです。それでも、僕は見掛けが元のままなので、なんとなくそれを元のテレビだと思っています。

 そういえば、筒井康孝の小説で、身体の悪いところを人口部品に代えていったら、最終的には元の身体のものは歯が一本残っただけで、あとは全部人口部品になりました、この人は誰ですか。みたいなのがあった。

 そういえば、昔ある物理学者が、この宇宙にある電子は区別することができなけれど、それは本当はこの世界には電子がただの一個きりしかなくて、それが同時にあらゆる場所に現れているからだ、という面白いことを言いました。

 素粒子は区別できない。
 区別できないものは「同じもの」なのだろうか。

 量子テレポーテーションで地点Aの電子から地点Bの電子へ状態を転写するとする。このとき実際には地点Aの電子がワープして地点Bへ行くのではなく、ただAの電子が持っていた状態が、Bの電子に転写されるだけのことです。
 だけど、電子はもともと区別ができない。だから、原理的に我々人類は本当に電子がワープしたことと状態だけが移動したことを区別することはできない。さっき僕は「実際に電子が移動するんじゃない」と書いたけれど、それはあくまで推量でしかありません。もしかしたら本当に移動しているのかもしれない。どっちなのかは永久に分からないし、絶対に区別が付かないことを区別する必要はない。

 ここで、地点Aにあった電子に注目してみると、事態はより明確になる。量子テレポーテーションを行いAからBへ状態を転写したなら、Aの電子の状態は量子複製不可能定理によって瞬時に失われる。だから、元のままの電子がAに残っているということは有り得ない。ただの遠隔コピーではないのだ。もしかすると唯の遠隔コピーかもしれないけれど、だとしてもこの量子複製不可能定理のおかげで「コピーと瞬間移動の区別」はできないようになっている。見かけ上、完全にAにあった電子がBへ移動したように見える。

 ここでちょっと注釈ですが、量子テレポーテーションによって「情報」が瞬時に伝わるわけではありません。量子テレポーテーション自身は瞬時に起こるけれど、それと「情報を運ぶ」というのは別の話です。
 相対性理論によって、僕達の宇宙で禁止されているのは「何かが光の速度を超えて移動すること」ではありません。禁止されているのは「情報が光の速度を超えて伝達されること」だけです。実際に光速を超えたレーザーパルスのようなものは実験室でいくらでも作られています。箱にパルスを入れる前に箱からパルスが出てきたりします。だけど、それを使っても「情報」は光速を超えて送ることができない。量子テレポーテーションを使っても、情報は光速以下でしか送ることができない。

 僕はずっと、原理的に区別できないからと言って区別しなくてもいい、というのは変だと思っていました。たとえば恋人にある電子を貰ったら、いくら他の電子と区別が不可能だからといっても、絶対にその電子と他の電子を交換したりはしない。
 でも、こういうのはあくまで人間にとっての重要事項であって、学問的なスタンスでものを考えるときは区別できないなら区別がないのだと考えるほうが正しいなと最近思っています。なぜなら、その区別というのはただの偏見に過ぎないからです。

 幸か不幸か、僕達はこの世界の真実を知ることができません。僕達は人間であり、人間というフィルターそのものであるがゆえに、直接何かを認識することができないからです。人間は人間のものの見方しかできない。それは超音波で世界を見ているコウモリの世界感がなんだかへんてこなものに見えるのと同じ程度にへんてこな世界観でしかない。知るという行為自体が、分かるという認識そのものが偏見の一部なので、何かが分かったと思ったなら、それは即座に「あるものについての人間なりの偏見を得た」と言い換える必要がある。純粋な真理は絶対に知られない。知られたものは真理ではない。そして、ヴィトゲンシュタインが言ったように「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」。

 量子力学は人類が手にした物理学の中で最高精度を誇るものの一つだ。たとえるなら、太陽と地球の間の距離を予測してみたら、測定の結果誤差が髪の毛の太さ程度もなかった、というくらいに高精度な理論です。だから、その数学的体系はほとんど完成していて、ただ、その数学の解釈だけができていない。そして多くの物理学者はもう気が付いているけれど、その解釈には意味がない。解釈というのは人間が人間の世界の尺度で何かを例えようとする試みにすぎないし、もはやその程度の比喩の通用する世界ではないのだ。式が何かを示していて、その予測が驚愕の精度で宇宙を説明するのであれば、その”式自体”が物事を表現する頂上にあるもので、それを解釈しようなんていうのは空しい行いなのではないだろうか。それは話の次元を引き摺り下ろす為の議論でしかない。式をそのまま「分かる」以外に方法はない。

 だから、本当に我々が区別する術を持たないのであれば、それは区別できないので本当に同じものである可能性を第一に持ってくるべきだ。
 とは言うものの、将来テレポーテーションの装置ができたとしても、僕はその台には絶対に乗らない。