Philippides.

 前回の記事を少し補足しておきます。
 「なんの為に人は生きるのか?」という問いは問われた時点で論理的には既に破綻している。とだけ書いて、それが何故なのかを書くのを忘れていました。
 どうして破綻しているのかというと、それは実に簡単なことで、この問いは無限に繰り返される「何故」を繰り込んだ問いに他ならないからです。例えるなら、無限大って数字で言うと何? みたいな問いかけです。ちょっと違いますね。
 子供のときに相手に対して延々と「なぜ」だけを言い続けるイライラするような遊びをされた方も多いと思います。その遊びだかいじめだかが成立するのは「なぜ」と問う人が、延々と何故だけ言っていれば相手を絶対に困らせることができる、と知っているからですよね。随分穿った見方ですが、本質的に人生の意味を問う問いはこれに等しいものです。

 「なぜ」の無限の繰り返しが人を苦しめるのは、それが論理で編まれた世界の中を延々とぐるぐる回り続けるだけだからです。今目の前に「全論理」があるとして、誰かがある「こと」の説明を求めてきたとき、僕達にできるのはその「こと」とは違う「こと」の順列組み合わせを「全論理」の中から選び出して、その「こと」を置き換えるという作業だけです。
 「なぜ」という問いは

 「こと1」は「なぜ」。

 という形で使われ、その答えに

 「こと1」は「こと2」に繋がるからだ。

 というものを要求します。人生の意味は何か。人は「なぜ」生きているのかという問いは、上の形式で、

 「ことN」は「ことN+1」に繋がるからだ。のN→∞とした極値を示せという問いに相当しますが、解は論理空間の中をあちこち行ったり来たりするだけで収束しません。なぜなら問いそのものが「ことN」の次に「ことN+1」を持ってくることをいついかなる場合にも要求しているからだ。「はい、次」としか言わない人はいつまでたっても「はい、次」としか言わない。

 なので、ちょっとずるいけれど「ことN」と「ことN+1」を同じにしてしまって、見かけ上の収束を図るという手がここで現れる。つまり「生きているから生きている」と言い切ってしまうということです。これは一つの特殊な解と言えます。しかし、(「A」とは「なに」か。「A」である。では「A」とは何か。「A」である。では「A」とは何か。「A」である。)の永久の繰り返しが内部で続いていることには変わりありません。停止ではなく足踏みのようなものです。そして、人が完全に同じ場所で足踏みを続けられないのと同じように、このときN番目のAとN+1番めのAは同じではない。たとえば、『私は私である』という文章が書かれたとき、1番目の「私」と2番目の「私」は同じ「私」ではありません。1番目の「私」は「は」で受けられる「私」であり、2番目の「私」は「である」で受けられる「私」だからです。何も文法の話ではなくて、ニュアンスが微妙に違いますよね。同じ「私」という記号を用いて示してはいるものの実体は同じものではありません。「私は私である」というとき、一回目の「私」と二回目の「私」では意識のあり方が微妙に異なるはずです。だから、もしもこの微妙な違いを区別する言葉が与えられれば、僕達は二種類の「私」を別の記号で示すことになる。今は単にそれを持ち合わせていないだけのことです。

 絶対零度にしても量子のゼロ振動が止まらないように、一つの単語やセンテンスだけを口ずさんでいても、意味というのは同じ場所に留まっていない。床の上に1マスが1メートル四方のメッシュを描いて、その一つのマスの中で延々と足踏みを続けることは簡単にできる。だけど、1マスが10センチ四方だったらどうだろうか。隣のマスに足を踏み込んだりしてしまわないだろうか。意味のメッシュを細かくすると、同じ言葉の繰り返しは同じ意味の繰り返しではなくなる。だから厳密に言えばこれは解ではない。

 ここで誤解の無いようにきちんと区別をしておくと「なぜ」という問いは演算子であって、ある値のことではありません。そして、「こと」というのはある値(意味)のことです。上の段落で言ったのは、値(意味)の繰り返しはぶれる、ということであって、演算子の繰り返しがぶれる、ということではありません。足踏みのたとえでは「次の一歩を踏みなさい」というのが「なぜ」に相当し、その「足の着地する地点」が「こと」に相当します。「次の一歩を踏みなさい」という命令は厳密に繰り返され、ただ着地する足の位置だけがぶれていく。

 つまり、「人生の意味を問う」行為は、僕達に「論理空間」の中を延々にぐるぐる回れという命令に等しいわけです。それが狭い範囲であれ、広い範囲であれ。適度なランニングは僕達を鍛え強い肉体を与えてくれる、しかし過剰なランニングは、アテナイに勝利を伝えて直後息を引き取った兵士のように人を殺すだろう。人生の意味を問うことは日々のランニングと同じようなものだ。そこにはゴールなんてないし、必要なら各自であの公園のベンチまで、という風に決めればいい。それにもちろん、ランニングは人生に必要なことでも、高尚なことでもなんでもない。

 前回、こういった問いには答えが無い、と断言した後に、だけど、僕は自分が生きている意味は知っている、と書いていて、それは確かに矛盾したことだ。でも、僕はそれは論理的に書いたわけではないので、矛盾なんてしていても一向に困りはしない。僕の場合は僕の周りに過去や今や未来いてくれている人々を見ていれば、自分の生きる意味は自動的に分かります。問いも論理も入る余地なくして。もちろん、この場合の「生きる意味が分かる」というのは、別に「論理的な意味」を持ってはいないし、生きる意味という問いの答えのことでもありません。