rigid body system.

 先日「生きている意味」に言及するコメントをいただきました。人がどうして生きているのか、というものですが、ほとんど全ての人が知っているように、この問いに対する答えは存在しません。でも、そこに答えが存在しないというのは別に、望みがない、ということとは関係が無い。
 どうしてかあまり誰もこのことを言わないので、少しそのことを書きたいと思います。

 僕達は少なくとも人生に一度くらい「どうして生きているのか」という問いに取り付かれます。そして、なぜかそれは実に高尚な問いかけのような気分がしてしまい、その答えを知ることが至上命題で、他のことが全部くだらなく見えたりする。 この問いは一見万能だ。人に何かを諭されそうになったとき、「そんなこと言うけれど、でも、そもそも何の為に人は生きているのですか。それを先に教えてください」と言えば、相手はたじたじになるだろう。怯んだ相手を見て、彼はさらに続ける。「ほら結局はそんな人生の基本みたいなことがあなただって分からないんじゃないですか。どうして生きるかも知らないのに、生き方のことを言われたくありません」実に汚い手だ。誰かを貶めるもっとも簡単で頻繁に使われる手段は、その人が絶対に答える事のできない問いを問うことです。そして、生きている理由を論理的に説明することは誰にもできない。

 先に言ってしまうと、「どうして生きているのか」を考えることは別に高尚でもなんでもない。この問いに対する答えを探す、というのは極めて限定された頭の使い方でしかないし、視野狭窄も甚だしい。それで大きな口を叩かれてはたまったものではありません。もしも、この問いを振りかざして大きな口を叩く人があったら、その大口は単に最強のエクスキューズ、ジョーカーカードを使う、という後ろ盾から生じたものに過ぎないと思って良いと思います。

 僕達は毎日沢山の言葉を使って生きている。だからもうこのことは誰もが良く知っていると思うけれど、言葉やセンテンスにはそれ自身に確定した意味はない。もしも僕が「あれはヤバイ」と言ったとき、その文脈を知らない人がこれを聞いたなら、あれが「いい」のか「わるい」のか判断できないはずです。「バカ」という単語だって愛情の表現にもなれば軽蔑にもなる。
 問いかけもこれに同じことです。ある問いが発せられるとき、僕達はその問いの差し出され方に注意を払う必要があります。問いというのは何も答えを見つけるために立てられるとは限りません。特に、このどうして生きるのかという問いは万人に共通であり、かつユニバーサルで論理的な答えがないとほとんどの人が知っています。もしも自分がそれを人に尋ねるとしたら、そのとき自分が相手の返答の中に真実を期待しているのかどうか胸に手を当てて考えてみればいい。たぶんそんな期待はないだろう。その問いによってイニシアティブを取りたいとか、相手の反応を見たいとか、相手の心の深い所に入りたいとか、そういう動機で問いは発せられるのではないだろうか。

 もしも心の底から自分が何のために生きているのかを知りたいと思っていて、その所為で夜も眠れない、というような人があるなら、偉そうですけれど、僕はその問いに答えはないとここで断言しても良いと思います。ではもうそれで終わりなのか、というとそうではありません。僕達は「なぜ生きているのか」という疑問を浮かべるのはどうしてなのか、それは一体どういうことなのか、を考える必要があると思います。問いの答えではなくて問いの出所のほうが重要だということはよくある。なぜなら問いというのは僕達人間の主観によるエゴイスティックな、世界の切り取り方に過ぎないからです。この一体なんなのか分からない世界を、僕達は日々自分勝手に編集して生きていて、それに関しては自覚的な人が多い。だけど、何かに疑問を持つときだけは無自覚になってしまうことも多い。「問い」というのは無機であり無垢であり客観的な道具だと考えてしまう。それはとんでもない間違いで、本当は問いの立て方で全ては決まる。

 「どうして人は生きているのですか?」という問いかけは、ぱっと見た感じでは破綻のない文章だけど、実質的には「数字の1と四分音符ではどちらが臭いですか?」という問いと同じ程度には破綻している。もちろん、ここに色々なこじつけを当てはめて個性的な答えを楽しむというのはありだけれど、それはそれに過ぎない。論理的には完全に破綻している。
 だから、僕達は本当はどういう問いを立てるのが良いのか、そこからはじめなくてはならない。
 それから、僕は大体のところ自分が何のために生きているのか良く分かっています。