she speaks acrimoniously.

 これは僕の基本的なスタンスですが、「なんだってやってみなくては分からない」というのは本当だろうけれど、だからといって「やりたくないことでもやってみなさい」というのは変だし、やってみなくちゃわからないというのは「やりたいことはやってみればいい」という風に使われるべきだと思います。
 世界は複雑だし、人生は複雑だし、一体どの選択がどう災いに転じたり幸福に転じたりするのかは誰にも分からない。でも、だからといって何かを選ぶときに自分の意志を除外する必要は無いし、やっぱりどうするのがいいのか、どうしたいのか、ということを考えて選択を行いたい。
 こういう風に書くと誤解があるかもしれません。
 僕は別にしたいことだけをするのがいいとも思っていないし、僕自身大抵のことにはこだわりがないので、どうでもいいような態度で物事を決めることがあります。ただ、嫌なことを無理矢理人にさせるのはやめたほうがいいのではないか、ということを言いたいだけです。

 先日中学の部活動について書いて、いくらか反応を貰いました。中学校での部活動が義務的だったことに戸惑いとストレスを感じていた人は結構多いのだと思います。中学の教師をしている知人に聞いてみると、「昔は義務だったけれど、今はもう違う」ということでした。良かった。
 先日の記事には「昔の自分に今の考え方を伝えたいけれどそれはできない」と書きました。改めて考えてみるとこれは実にエゴイスティックな考え方です。昔の自分には伝えることができないけれど、もしかしたら今の子供に伝えることはできるかもしれないからです。おこがましいのは分かっているけれど。でも、いくら青二才でもなんでも、少なくとも僕は子供よりは物事が分かっていると思います。大人になるに従って心が雲って見えなくなる、みたいな話をする人もいるけれど、そんなのは大嘘だし、長く生きるに従って僕達は研ぎ澄まされる。

 僕はまだ自分自身があまりに未熟で、とても人に何かを教える立場ではないし、それに他人のことにはあまり興味がありません。ところが、塾講師のアルバイトをしていたとき小学生や中学生を目の当たりにすると教えたいことが溢れるように湧き出してきて驚きました。僕の教えたかったことというのは学習塾で教えるにはかなり害があるようなことばかりだったと思うし、仕方無しに僕は極めて控えめに仕事をしていました。

 そういえば、この塾でアルバイトをしていたとき、一度小学生の女の子が僕のところへ怒りながらやって来たことがありました。曰く「先生の所為で学校のテスト間違ったじゃん」。それは理科のテストだった。彼女はかなり賢い女の子だったので僕が教えたことはきちんと理解しているはずだし、一瞬僕が何か間違ったことを教えたのかと思った。でもそんなはずはない。自慢ではないけれど僕は小学生のとき誰からも天才だと言われるくらいには理科ができたし、大学院生にならずしても小学生のときにだってその単元を教えることはたやすくできただろうというくらい自信があった。
 結局それは明らかに学校の先生の間違いだった。その子はもちろんくだんのテストとそれにまつわるプリントを僕に見せてくれたのだけど、それは滅茶苦茶なものだった。その先生が頑張ってプリントやテストを作ったのは見て取れるけれど、残念なことに内容は滅茶苦茶だった。僕だってそれなりに頑張って教えているのに、同じ単元を学校でそんな滅茶苦茶に教えられてはたまったものではない。これは僕がその先生に連絡をつけるか何かしたい、と最初は思ったけれど、いかんせん一介のアルバイトだし、連絡をするさいには塾の名前を使うことになるし、色々面倒があるかもしれないと思ってそれはやめにして、その女の子にメッセンジャーを頼むことにした。まず塾にあった理科のテキストを何冊か見せて、どれに書かれていることも僕の言ったとおりであることを示して、それから学校の先生を論破できるように、どうしてそうなるのかを事細かに説明した。彼女は目を見張るように賢い女の子だったので、後日先生にそれをきちんと伝えてくれた。

 僕がそのとき思ったのは、こんなに賢い子でもやっぱり学校の先生の言うことが正しいと思うのだ、ということです。僕にオーラがないだけのことかもしれないけれど、でもちょっと考えればその先生の言っていることがおかしいと、僕の助言なんてなくても本当は気がついたはずだと思う。
 彼女はとても賢い女の子だった。でも、学校ではシャーペンを使ってはいけないだとか、ベルがなったときには椅子に座っていなくてはいけないとか、そういうことにはとてもうるさくて、そういうところを見ているとやっぱり子供なんだなと思った。学校というのは彼女をすっかりと覆っていた。それは見ていて非常にもどかしいものだった。