cern.

 一部の物理学者はどきどきしながらその時を待っているわけですが、今年は物理学史上に残るビッグイヤーになる可能性が非常に高いです。欧州原子核研究機構
(CERN)で本格的に稼動する大型ハドロン衝突型加速器(LHC)がヒッグス粒子というものを見つける可能性が結構高いからです。ヒッグス粒子というのは質量を生み出すメカニズムに関わる粒子で、これが見つかると物理学の標準理論が完成してしまう。一部の修正事項を無視してあえて大袈裟に書いてしまうと、標準理論は今のところ重力を除く全てを説明することができている。つまり現在人類は標準理論で説明できない現象を知らない。重力に目を瞑ると、半分これは究極の理論で、宇宙の全てを説明する理論です。すご過ぎるけれど、僕達はそういう時代に生きています。

 もっとも、物理学者はこれで探求を終わりにできると考えていません。重力やなんかの問題は残っているし、標準理論で終わりではすることがなくなってしまうので、必死で標準理論で説明できない現象がないか探しています。

 僕はこれでも一応物理学者志望で、というか本当はいい加減に胸を張って物理学者ですと言えるようになるべきですが、それなりに究極の理論や究極の理解ということに思いを馳せるときもあるので、今日はそのことについて少し書いてみたいと思います。

 昨日ジュリアン・ジェインズのことを少し書いたけれど、彼は「比喩」というものを語るときに、「比喩とは単なる例えのことなのか?」という問いかけを即座に打ち消し「比喩とはそんなにちっぽけなものではなく、もっと重大なものだ」と言っています。曰く「我々が何かを理解するというのは、我々が何かを身近な比喩で表現することに成功したときだ」

 人はときどき『「分かる」というのは一体どういうことだろう?』という疑問に取り付かれますが、その答えの一つがこれだと思う。
 「分かる」というのは自分がその対象を身近なものの比喩で置き換えることに成功したときに生まれる感覚のことだ。

 僕はジェインズのこの記述を見て、そうか、とちょっと衝撃を受けたのですが、考えてみれば昔ヴィトゲンシュタインを読んでいたときに「説明とは何かの本質を示すものではなく、ただの比喩のことにすぎない」という分析を読んでガツンとやられたのをすっかり忘れていただけのことでした。昔ある衝撃とともに知ったことをすっかり忘れて、もう一度同じような文章で衝撃を受けるなんて、なんて間抜けなんだろうと思う。

 兎にも角にも、僕達の「わかる」という感覚が「身近なものへの比喩」と極めて似ている、いやこれでは言葉を濁し過ぎですね、「分かる」というのは「比喩」そのものだという観点からすれば、実は僕達物理学者の求めている究極理論というのはもしかすると砂上の楼閣にすぎないのではないかという疑問が当然のように湧いてきます。

 ここで誤解を招かないようにきちんと断っておきますが、僕は我々の世界に対する理解が比喩の成功不成功に依存するような曖昧なものである以上、人類が究極理論を手にすることはできない、あるいは手にしたとしてもそれは幻だ、ということを言いたいわけではありません。

 物理学は科学であり、科学には厳密な決まりがあります。それは現実的な実験観測でデータが取れて初めてある程度の正しさが認められるということです。だから理論はそれを証明するような実験を考えて実際に測定されてみないことには真偽を確かめることができない。もちろん、「でも実験できなくて測定もできないようなことの中に真理があるかもしれないじゃないか」という意見だってたくさんあるとは思う。それは正しい。だけど、とりあえず科学者は「実験観測で見えるものだけ」を相手にすることに決めたのだ。そういう流儀にしようと。だから科学が絶対に一番正しい真理への道なのだ、なんてはっきり言ってほとんどの科学者は考えていない。単にこれがいいんじゃいかなってくらいの感覚で実験と観測に重きを置いている。もしも観測できないところに真理があるなら、科学は真理に到達しないだろう。ならそれはそれで仕方ない。そういう腹の括り方のことです。

 だから、実験観測を重んじるという意味合いで科学が、物理学が標準理論を手にしたら、それは実際に我々のこの宇宙を説明するだろう。あくまで人間から見たこの世界であれなんであれ、兎に角理論は完璧に現象を予測するし、技術とともに多種多様な新しいものを作るだろう。科学のいう究極というのはそういうことです。それは形而上の問題に立ち入るものではないし、理論が予測を行い実験の結果に完全に一致すればそれで全てOKです。

 閑話休題
 理解が比喩にすぎないというのであれば、我々の世界を理解しようという意志は最終的にこの日常生活に還元されなくてはなりません。つまり、リンゴがテーブルの上で転がった、みたいなことに。だけど、このリンゴの運動というのは実際にはニュートン力学で記述される現象であって、言ってみれば物理学を物理学で例えて分かった気になっているにすぎません。ならばこれは理解ではなくて例え合いのどうどうめぐりでしかない。僕達の「分かった」が比喩であるのなら、この宇宙に住む僕達はこの宇宙の中で起こっているある現象を他の現象で例えること以外にすることがないし、それは理想である何かより深いものを知るという意味の「(理解)」とはかけ離れたものだ。科学という意味ではなく、形而上学的に宇宙を理解することを考えると、そこには果てしない閉塞感があることを否めない。でも、いつか僕達はここから出る為の天才的なアイデアを考え付くのかもしれない。