sunny sony.

 rollyを見て、久しぶりにソニーをかっこいい会社だなと思った。
 僕は基本的にソニー製品のデザインが好きではないので(デザインで売れたといわれるバイオもどこが良いのか理解に苦しむ)、ソニーの製品は遠巻きに眺めてしまいます。最近は他社の製品と特別な差異を持たない会社に見えて仕方がなかった。

 ところが、rollyはデザインはさておき会心の作だと思います。あまり売れはしないでしょうが、コンセプトはすばらしいと思う。
 近々、ソニーが対ipodとなる製品を発表するらしい、という噂が流れ出したとき、ほとんどの人は同じような携帯MP3プレーヤーを心にイメージしたんじゃないだろうか。それが、動く音楽プレーヤーだとは。

 1979年にソニーは「ウォークマン」を世に送り出した。それは大袈裟でなしに世界を変えた。個人で音楽を、いつでもどこででも楽しめる、というスタイルは以来人々に浸透し、20年経って気が着いたらアップルのipodができて、ほとんどヘッドホンで聞く携帯音楽プレイヤーは完成の域に達したと言えるだろう。
 そんな時期に、ソニーはヘッドホンではなくスピーカーで、つまり個人ではなくみんなで一緒に音楽を聞くための小型プレーヤーを発売した。自らが始めた「個人リスニング」の世界をあっさりと置き去りにして、自分は次のステップへ進んでいる。rollyには人工知能が搭載されていないので、ロボットと呼ぶには抵抗があるけれど、コンセプトとしてこれはいつでも自分と一緒にいて音楽を奏でてくれる(しかもダンスもする)ロボットだと言ってもいいと思う。どこの会社も作らなかったけれど、SF的に考えればこれはしかるべきベクトルだった。

 個人視聴型音楽の完成形ipodが、遂に一切の物理的インターフェイスを排除して、操作を全てタッチパネルで行うという形に至ったとき、ソニーは液晶パネルを持たず操作はボディーそのものを物理的に動かして行うというrollyを作った。

 何を感じたのかというと、僕は少しほっとしたのです。

 話を2年前に遡ると、2005年は日本で愛知万博が開催された。だけど、これはI君の言葉を借りればハリボテ万博だった。ほとんど全てのパビリオンが「音と映像」に終始していて、「物理的実体を持った何かを体験する」ということはほとんどできない。現代を象徴するように、そこにあるのは「情報」だけで、「実物」なんてものは、もはや無視されかかっていた。

 世界はどんどんと仮想化している。
 最近もっとも嫌いなテレビのCMは、どこかの会社のもので、ラグビーの試合に負けた傷だらけの少年を、その恋人みたいな女の子が触って「痛いじゃないか、やめろ」みたいなことをいうやつです。その後、女の子は「薬をつけてあげる」といって軽く男の子の頬にキスをして、そこで「欲しいと思うテクノロジー第○○位。感覚伝導フィルム」というようなキャプションが出る。カメラが男の子を撮る角度を正面から横に変えると、そこには本当は男の子なんていなくて、それはテレビ電話の画面に過ぎないということが分かる。しかし、未来のテクノロジーでは、画面に触れた感覚を伝えることができるので、この2人の恋人は離れたところで触感を伴ったコミュニケーションがとれるのです。素晴らしいですね。私達はそんな技術を志向する会社です。素敵でしょ。というものだ。

 僕はこのCMを見たとき恐怖に襲われて、大袈裟に言えば吐き気を覚えた。
 こんなものを作ってはならないと思う。代わりに世界中のどこへでも10分で行けるような乗り物を開発したりしなくてはならないと思う。情報だけを送って、僕達のこの肉体というのはどこまで無視されるのだろう。

 rollyはそうしたものに対する一つのカウンターである。このプレーヤーが踊る体を持つことは、僕達自身が身体を取り戻すことの象徴だ。今からほとんど30年前にウォークマンが始まったように、ここから何かが始まるのかどうかは誰にも分からない。しかし、近い将来、僕達は僕達というのがこの生物学的な肉体そのものであることを再認識するんじゃないかと思う。