Lagrange's method of undetermined multipliers .

 わずか数十円のお金でワクチンが買えて、どこかの国の子供が助かるらしいのに、どうして僕は120円の缶ジュースを買って一気に飲み干したりするんだろう。と時々思う。

 クリックするだけで1円が募金されるサイトというのがあるけれど、そのサイトを開いてクリックする、という一連の作業にもしも1分掛かるとしたら、それは時給60円のひどく効率の悪い作業だし、その1円をクリックした人の代わりに出してくれるという企業の広告を読まされているだけにも思えて仕方がない。

 僕だってもう子供じゃないので、円やドルやユーロの話を全然知らないわけではないけれど、缶ジュース一個分のお金で人の命が救えるのだとしたら、この世界は一体どうなっているというのだろう。

 どうして僕たちは募金というものをあまりしないのだろう。

 もしも目の前に誰かがいて、その人の命が50円で救われるなら、ためらう日本人なんてほとんどいないだろう。でも、実質僕たちは毎日それを躊躇っている。躊躇っているんじゃないよ、忘れているんだよ。というのはお粗末な言い訳だ。僕たちはそれを知っているし、忘れているというのは意識的にそれを気にしないようにしているということにすぎない。考え出すと面倒だから。想像力や実感の限界だという意見もある。1万キロかなたのことなんて考えられないって。

 僕たちは募金をするときに良く分からない謎の感覚に陥る。
 これが何なのかは良く分からない。でも、この異様な感覚は世界の歪みみたいなものを象徴しているように思えて仕方ない。地震義援金みたいなはっきりしたときは感じない感覚だ。
 そういうのを解決するのは募金じゃない、とみんなが思ってるからかもしれない。あるいは、そういうのを解決するのは僕じゃない、とみんなが思ってるからかもしれない。

 社会保険庁のデータ問題が世間に発表された後、暴動みたいなものは起こらなかった。もちろん暴動では何も解決しないけれど、5000万件ということはすくなくとも5000万人の人が人為的に被った損害に対する怒りみたいなものはどこへ放出されたのだろうと思う。

 なんというか大変なことが起きても誰も本当には怒らないように見えて、僕はときどきそれが良いことなのか悪いことなのか分からなくなる。腹で飲んだのか。それとも「僕には本質的には関係ない」と思うからか。

 「年金がもらえないんじゃないか」みたいな話も、全部トピックではあるけれど本題として語っている人がいるようには見えない。どうせ心の底では誰かがうまくしてくれて年金はちゃんと貰える様になっている、と思っている人の方が多いように見える。
 実際に目に見える形で痛手を被るまで、僕たちは共同体の構成員であるにも関わらず当事者意識をほとんど持たない。そして痛手を被った後の事後策というのは本質的には何も回復させない。それは仕方のないことではなく、仕方は今ここにある。



2007年7月31日火曜日
 研究室へ行くとOが「今日はいい天気だ。湿度も低いし、アンカラの夏はこんな感じだよ」と晴れ晴れした顔で言う。僕は斜め向かいのアパート解体が今日はやけに埃っぽくてひどい気分で部屋を出てきたので、とてもそれに同調する気分ではなかった。しかも寝不足だし。
 昼にB先生に約束していたレポートを出しに言って、ついでに少し話をして帰る。
 食堂でランチを食べているとOがやって来て、Mがやって来て、S君が通る。Mはイラン人なのでアジアカップのことをちょっと聞こうと思ったけれど忘れる。
 研究室に戻ってしばらくすると寝てしまったので、いっそのことと部屋へ戻って寝ようとするも、目が冴えて本を読み、シャワーを浴びて、祖父から貰った野菜が大量にあったので久しぶりにフライパンを使ってご飯を食べる。