night.

2007年7月30日月曜日
 夕方、研究室のすぐ外の窓から京都盆地を見下ろして、強すぎない夕日に照らされる街並みを遠く南の山まで見る。そこここで犬が吠え、鳥が鳴き、大きなマンションの高い屋根にとまった、今ではカラスさえいとおしく見えるような、そんな月曜日の夕方。僕は赤い缶に入ったノーマルのコカコーラを飲みながら、高く飛ぶ鳥を見上げて大切なメールを携帯電話で書いたり。

 そのあと、ビレッジバンガードへ散歩に行って、世界の夜景を写した写真集を見てたらひどく感動してしまう。
 僕たちは夜景が好きだ。それは、単純にきれいだからではないんだろうな。そこに人がたくさんいて、なにかしら色々なことをしているからだろうな。昔、僕はナイトゲームのスタジアムというものがとても好きでした。周囲の街からひときわ明るく。終わり行く1日の中で、そのスタジアムのなかだけが1日のハイライトを迎えていて、何万人という人々がわいわい詰め掛けて、それはもうなんて素晴らしい場所だろうと思っていた。今もですけれど。

 エネルギー問題が多く語られるけれど、僕は絶対に「節約」という方向へは行って欲しくないなと思う。どんどん使えるクリーンなエネルギーで、どんどんときれいな夜景が生まれればいいと思う。

 その写真集の中に摩耶山から写したものもあって、日本3大夜景の一つだと書いてあった。日本3大夜景なんていうものがあったとは知らなかった。

 大学に戻って食堂でご飯を食べて、この日中に仕上げなくてはならないものがあったので、それとなくはじめる。窓から月を見上げると満月だった。東京のSちゃんからメールが来て、東京では雷が鳴っている、と書かれていたので、京都は快晴で満月がきれいに見える、と返事をする。

 朝方の4時になんとか作業を終えて、逸早くシャワーを浴びて眠りたい、と思いながらアパートに戻ると、廊下にまだ荷物を置いていたのが見えて愕然とする。今どうにかしなくては明日には撤去されてしまうのだ。愕然としたまま5時まで掛かってなんとかベランダに押し込んだりして片付ける。

 廊下は確かに広くすっきりしたけれど、僕はやっぱり納得が行かない。同じ階の住人が邪魔だとか通りにくいとか文句をいうなら分かるけれど、そういうわけでもないし。邪魔にならないようにつつましくみんなが廊下に物を置けた方が断然便利なのに。このガランとした廊下に何の価値があるんだろう。

 まるで自己弁護ですが、僕はずっと思っていることがあります。

 お金では本当は何も買えない。

 これは別に愛情や幸福が買えない、みたいな観念論ではなくて、普通に物が買えない、という意味です。買えない、というと御幣がありますね。買えるけれど所有はできない。

 たとえば、ここにものすごい大富豪がいて、彼が日本以外の世界中の土地を買い占めたとします。そうすると世界の人々は60億人もが日本に住むしかなくなって、当然そんなのは無理で、あぶれた人がアフリカとかユーラシアとかに住もうとする。でも、そのものすごい大富豪はものすごいセキュリティーシステムを導入していて、誰も日本以外の陸に上陸できない。大富豪はアメリカかどっかに一人ですんでいて、別にアフリカへもオーストラリアへも一生行く気がないんだけど、誰もそこには入れない。
「だって、ちゃんとお金払って買ったんだから、俺の物だし」
 そしたら僕たちは大富豪のセキュリティーシステムを破壊して間違いなくアフリカにもユーラシアにもオーストラリアにも上陸するだろう。このとき大富豪のいう「お金払った」なんて何の意味もなさない。

 これは極端だけど。
 でも、お金を出して物を手に入れると言うのはあくまで社会的なルールにすぎないし、はっきりいってあまり重要なことに見えない。そこには節度が要求される。プライベートビーチなんていうのは普通の感覚で考えれば存在できないんじゃないだろうか。お金出してこの海岸を買ったんだ、なんて言っていることが破綻してる。空間だとか、景色だとか、それはどのようなルールを定めたとしてもけして僕たち人間には所有されない。通常、家を建ててその中でプライベートが守られるというのは「空間を買った」からではない。それは金銭と引き換えに得た「権利」なんかじゃない。「私はここにこれだけの面積を占有して住居としたいです」という宣言と承諾のことだ。

 これは土地だけのことではない。
 食べ物だって、コンピュータだって、なんだってそうだ。誰かが世界中の食べ物を買い占めて「私のだ。食べきれないし捨てるけれど」と言ったら、そのとき所有することと買うことの関係がよりはっきりするだろう。所有というのは権利ではない。それはむしろ「許し」に近い。

 神社でお賽銭をするとき、「神様にお金を上げて頼む」という以上に、お金と共に穢れを払う、という意味合いが本当はある。昔の日本人はお金には穢れがついていて沢山もっていると不幸になると思っていた。僕たちの社会は多くの交換関係で成り立っていて、一定以上のお金をプールするというのはその流れを止めることだから当然だ。コミュニティが今よりも小さかったのでそういったことがよりはっきりしていたのではないだろうか。
 当然、ここでのお金は「交換」のシンボルであって、何も物質としての貨幣そのものに穢れがあるわけじゃない。人々が交換する対象、食べ物でも土地でもなんでも、それらを溜め込むということがコミュニティ全体にどれだけマイナスとなるかという経済のことと示唆している。