foggy.

 茂木健一郎さんのブログを読んでいたら、インターネットに関して面白いことが書いてあったので引用させていただきます。

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インターネットというと、
世界共通のように思うが、
文化は国によって大分違う。

ハンドル名などを用いて実名を
用いないというのは、日本に顕著な
現象であることは知っておいて
良いと思う。

アメリカのアマゾンでは、ブックレビューを
本名で書いていることを示す
Real Nameというサービスがあり、
その割合は多い。

韓国のSNSでは、実名が基本で、
SNSの中に親戚が全員いる、
という状態になっていると
東大の水越伸さんに聞いた。

欧米の著名人に会って、メールアドレスを
交換すると、何のひねりもない
実名であることが多い。

テレビのプロデューサーに聞いた
話だが、番組への意見を募集する時に、
本名、郵便番号、メールアドレスなどの
最低限の「属性」を書き込むことを条件に
すると、クオリティが格段に上がる
のだという。

「何よりも、文章自体がまともになる
んですよ」
とそのプロデューサーは言った。

個人名を明らかにして書けば、
それはその人の個人的な意見になる。

ところが、匿名で何かを書くと、
あたかもそれが社会の「空気」である
かのような錯覚が生じる。

ネットは世界を結んでいるにも
かかわらず、日本語圏は事実上
閉じているから、自分たちの
特殊性に気付かずに済ませてしまって
いることが随分多いのではないかと
思う。

インターネットというメディアは、
日本人にとって、自らの姿を
映す鏡になっている。

「匿名で書かれた意見は、無視して
かまわない」

極言すれば、そんな情報倫理を日本人も
少し持ったらどうかと思う。
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(引用終わり)

 ネットの中ではどこの国でも匿名性が強いのかと思っていたら、どうやら日本は特にその傾向が強いみたいですね。
 僕は最初から匿名性に違和感を持っていたので、昔インターネットに普通のホームページを持っていたときも、メールマガジンを出していたときも本名でやっていました。もちろん、このブログもプロフィールに書いてあるのは本名です。

 インターネットに付随する負のイメージのうち、その多くは「匿名性」に原因を持つものだと思う。その昔「2ちゃんねる」という掲示板が有名になりだした頃、「2ちゃんねるって知ってる?」と言いながらS君がそこへアクセスして見せてくれたとき、僕が最初に気になったのは書き込む人の名前が全部「ななしのなんとか」みたいなものになっていることだった。質問する人も答える人も、全部同じ「ななしのなんとか」。それがとても異様で、僕はどうしても受け入れることができなかった。

 仮面舞踏会では、人はいつもとは違った自分になれるかもしれない。それはある素晴らしい思考を発現するかもしれない。だけど、平素の自分を離れたそれらに一体何の価値があるだろうか。

 小林秀雄は昭和15年の文藝銃後運動講演「歴史と自分」の中で、

「日本の歴史が今こんな形になって皆が大変心配している。そういう時,果たして日本は正義の戦いをしているかという様な考えを抱く者は歴史について何事も知らぬ人であります。歴史を審判する歴史から離れた正義とは一体何ですか。空想の生んだ鬼であります。」

 と述べている。
 僕はこの最後の2文、「歴史を審判する歴史から離れた正義とは一体何ですか。空想の生んだ鬼であります。」というのを読んで鳥肌が立ちそうになった。

 この文章へ至るにはそれなりの道程があって、文脈としてはこれは『「歴史」という言葉のフィルターで物事を見る時代』を批評したものだったと思う。歴史、以外にもいくつかの言葉が槍玉に上がっていた。基本的に、何かのテーマとなる言葉を頭上に振りかざして何かの判断を行うこと、特にそれを無自覚に行うことを咎めたものだ。

 僕たちのこの時代が持つ最大のフィルターは、今や「匿名」というもはや人間の放棄みたいなものになっているように思う。



2007年7月20日金曜日
 大学。パン屋で昼にたくさんパンを買ってしまって、一日中パンを食べている。
 昼から「freedom4」の配信が始まったので見る。

2007年7月21日土曜日
 朝に東京のAから電話が掛かってきて起きる。今まで一晩中働いていたとのこと。電話を切った後もう一度眠ろうとすると、窓の外どこからか生のニンニクみたいな、でもケミカルな感じの臭いがしてきて、不快で怖かったので窓を閉めるけれど臭いはするのでとりあえず研究室に避難しようと考える。ちょうどはす向かいのアパート解体工事もはじまってうるさいし臭いしとても居られたものではないので急いで大学へ行こうとアパートを出ると、僕のバイクに「31日をすぎれば放置とみなし撤去します」と管理会社の紙が貼られている。それはもうこのところ1年以上乗っていないけれど、ちゃんと駐輪許可のシールも貼ってあるのになんてことだ。大学は大学で今耐震工事をしていて、煩い上に空気が埃っぽい。研究室に行くだけだ、と思って顔も洗わないで飛び出してきたので、どこかの喫茶店へ行ってモーニングセットということもできない。居場所のない土曜日の朝。

 美容院で髪を切ってきたWと吉田神社で待ち合わせて、ランチを吉田山山頂の茂庵で食べる。僕たちがそのカフェへ向かう途中、仕入れに出ていたカフェのかわいらしい小さな赤い車が山頂を目指して道なき道をベキベキ枝踏み鳴らして上っていって、その幻みたいな景色で梅雨の曇り空にうんざりな気分も吹き飛ぶ。

 その後、平安神宮へ行く。僕は小さな頃に来ているはずだけど、もう記憶にない。平安神宮の前なんてよく通っているのに、全然入ろうと思ったことがなかった。庭に入ると広くて吃驚する。まさかこんな空間が岡崎にあったなんて。平安神宮を無視して生活していたけれど、ときどき来るのも悪くない。図書館のついでに立ち寄って、借りた本を読んだりしてもいいなと思う。

 平安神宮を出て、行く当てがなかったので自転車で適当に走って、道が分かれるたびに「右、左、真ん中」のどれかを選んで進んでいると哲学の道に入り、路傍に謎の荒廃した喫茶店跡を見つける。うっそうとした階段を下りていくとその喫茶店はの門があって、中を覗くとへんな彫刻だとかが放置されたままになっていてちょっと怖い。
「久しぶりに良く分からないリアルなものを見たね」といいながら哲学の道に戻り、お腹が空いたので白川通りへ下りてトランクルームでインディアンカレーを食べる。