写真との対話について。

 ちょっとだけ写真の話を書く必要があったので、それを貼り付けました。
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 男の顔が映し出される。続いて、スープの入った皿が写る。彼の顔は無表情ながらも、どこかしら空腹に堪える辛さを滲ませているように見える。映像が切り替わり、また同じ男の顔が写る。今度はその後に子供の姿が映し出される。我々は男の相変わらず無表情な中に微かな笑みを読み取る。なんとも繊細な演技だと。だが、実は2つの男の顔は全く同じ映像を写したものだった。我々は同じ表情の中から、文脈に応じ異なった意味を読み出したのだ。
 この“男”とは俳優モジューヒンのことである。1920年代、当時ロシアで映画学校の教授をしていたクレショフは、上記のような実験を行いモンタージュ理論の基礎を作った。鑑賞者はある映像の解釈を、その前後に配された映像に関連付けて行う。我々は映像の解釈を現在只今見ている映像の中だけに求めるのではない。映像の解釈は時間的にも空間的にも「それがどこに置かれているのか」ということに大きく依存している。
 それでは「どこにも置かれていない映像」、つまり「時間的にも空間的にも切り取られた映像」を我々は一体どのように解釈しているのであろうか。ここで私が取り上げたいのは写真の解釈である。写真はその本来が持つ性質として時間を切り取り、写真集や額の中に納められ空間的にも切り取られている。鑑賞者は写真を自由な場所に置き、コラージュし、好き勝手な文脈でそれを解釈することが可能であるが、少なくとも写真が世に出た瞬間においては写真集や額は外界との断絶を意味している。あるいはギャラリーのホワイトキューブに写真を置いても良い。壁面の白という色が記号として周囲の全てを消去し、写真はそこで完全に独立する。
このように切り取られた写真を見たとき、我々の中に立ち上がる解釈は何に依存しているのか考えてみたい。
 その前にホーミーについて紹介しよう。モンゴルにはホーミーという歌唱の方法がある。ホーミーの歌い手は一人で同時に二つ、あるいは三つの音を出すことができ、それを聞くものは最初キツネに抓まれたような気分を覚える。何故なら一つの場所から二種類以上の音程が発生するということは自然界にそうそうないからだ。地球上に生物として長い歴史を持つ我々は「一つの音はあの歌い手から出ているが、もう一つの音は別のところから来ているに違いない」という処理を無意識下で行う。音は時間軸に沿って流れる生ものであり、出所は今この瞬間のどこかにあるはずだ。しかし、この瞬間のどの空間的位置にも音の出所は見当たらない。ならば我々は音のやって来る“別の場所”を頭の中に求めるより他ないであろう。それは大地の声かもしれないし、神の声かもしれない。
 ホーミーほどに端的でなくとも、多くの音楽が倍音を含み、それは我々がホーミーを聞くときと同様の錯覚を引き起こす。一部の音は目の前の演奏者からやってくるが、倍音はどこか他の場所から到来しているはずであるという判断は、各人の文化的思想的背景、あるいは宗教的背景にアクセスして“他の場所”を決定する。故に、同じ音楽を聴いても、ある人はそこに天の音を聞き、ある人は宇宙の営みを、霊魂のざわめきを、イデアとしての美を感じる。それは自身が蓄積してきたものの反映だ。目前に繰り広げられる現実が非現実と紙一重であるとき、さらに解釈の拠り所が見当たらないとき、私達は解釈を自らの内面に探し始める。
 写真に戻ろう。一見すると写真は現実を写した鏡であるが、その実はすこぶる非現実的なものだ。1000分の1秒という短い時間を止めた視覚的情報はカメラというテクノロジー以前に存在していなかった。したがって、私達がある写真に対峙したとき、最初に起こる感覚は戸惑いであると言える。ホーミーや倍音を含んだ音楽を聴いたときと同じように、戸惑った脳は安定した着地点を探す。今、写真は意味的に完全に切り取られていて(タイトルのない場合を仮定する)、着地点に関する手掛かりは全くない。スープも子供の映像も何もない。このとき、我々は解釈の根拠を自らの中に求める。
 こうして私達の脳は一枚の写真をきっかけとして内観を開始する。開始するのみならず、それは原理的には終わりを持たぬ現象として持続するだろう。写真は止まっていて、そこにあり続けるからだ。この点で音楽と写真は決定的な差異を持つ。音楽は時間と共に変化し失われるが、写真は目の前にずっと存在し続けるので、私達はその気になればいつまでも同じ写真を眺めていることができる。
 ある鑑賞者が一枚の写真を眺めているとき、彼は写真と対話をしていると言って良い。それは断続的に続く運動だ。最初、彼は彼であった。写真を見る以前の彼である。ところが写真の鑑賞は彼を変化させる。彼は自らの内部を探り、写真に対する一つの解釈を発見し「彼」から「彼1(ある解釈を得た彼)」へと変容する。“「彼」が写真を眺める”という事象と“「彼1」が写真を眺める”という事象は別のものであり、そこから出力されるものも当然異なる。『「A」が写真を眺めて、その結果「A」が「B」に変化する』というのを形式的に『A→B』と書くことにすれば、『彼→彼1』は『彼1→彼2』、『彼2→彼3』、・・・、『彼n→彼n+1』・・・として続き、彼が写真から目を逸らすまで終わることがない。その間、何度も何度も、彼は自己の内部に足を踏み込む。忘れていた記憶が蘇り、知っていたことを知らなかったことを知り、理解していたことに気が付いていなかったことを理解する。外部に一つの対象として与えられた写真は、自己という井戸の深い部分から水を汲み上げる呼び水であり、同時に動力でもあるのだ。故に、写真は単なるテクノロジーではなく一つの芸術として確立し得た。それは絵画とは明らかに次元のことなったリアリティを持ち、倍音を聞くとき同様の不安定を我々に呼び起こす。絵画を我々が「描かれた虚構」として理解するのに対し、写真への理解は「あってはならないはずの現実」としてスタートする。音楽や映画のように時間軸に沿った変化を持たないので、内観はどこまでも深く進むことができる。
 もちろん、この自らの内部に解釈を求める運動は完全に自由なものではない。写真からの引力が常に働き、ある場合には、その引力は鑑賞者を撮影者の立ち位置へ導くことになる。以下では、そのように鑑賞者を撮影者に近づける写真を仮に「良い写真」であると呼ぼう。無論、この「良い」は普遍的なものではない。写真の良し悪しに関して「どのような写真が良い写真なのか」という問いは、本来「どのような写真が良い写真なのか、と問うことはどういうことなのか」というメタな枠組みで議論されるべきものである。つまり、「どのような写真が良い写真なのか」の答えは、「どのような写真が良い写真なのか、と問うことはどういうことなのか」という議論中での一意見に過ぎないし結論にはなり得ない。それはどのような欲望故に人は写真について語るのかという問いに応えない。私たちがある写真を良いと言うとき、本当に伝えたいことは「この写真が良い」ということではなく、「私という人間はこの写真を良いと思うような人間である」というメッセージだ。そうでない場合、私達は写真について何一つ語る必要がない。したがって汎用性のある良し悪しの基準は存在しない。ここでは単純に便利の為、鑑賞者を撮影者に近づけるものを一つの呼び方として「良い」に指定する。
 さて、芸能者の心得に「師を見るのではなく、師の見るものを見よ」というものがある。弟子が師に追いつきたいと、必死にその師を見ていても、結局のところ弟子の到達するポジションは「師を見る者」でしかない。もしも本当に彼が師に追い着きたい、すなわち「師の立つ場所に自分が立ちたい」と欲するのであれば、彼は師ではなく、師が今立っている場所から何を見ているのか、を思考する必要がある。それを見ることに成功したとき、彼は「師を見る者」から「師と同じ場所に立つ者」へと移行するのである。真に優秀な弟子というものは、この「師の見るものを見る」ことを成し遂げる。また、真に優秀な師というものは、弟子に「師の見るものを見る」ように仕向ける。
 良く撮られた写真というものは、丁度この「真に優秀な師」に似た物である。「真に良く撮られた写真」というものは、鑑賞者を「写真を見るポジション」ではなく「写真を撮った者のポジション」へと誘導する。このとき鑑賞者は即撮影者となる。つまり、写真を見る者は全て撮影者なのだ。私達は良い写真を見るとき、「撮影されている対象」を体験するのではなく、「それを撮影したこと」を体験する。
 そうして、私達は自己の内部を転々としながら、過去のある時点に存在した撮影者を体験する。自己の内部というのは当然過去のことでもある。写真から目を上げたとき、内観した道筋に撮影者が組み込まれ、私達の自身に対する認識、世界に対する認識は変化している。写真を眺めるという静かな行為は、対話の後に、自らの内部(過去)へ他者の視点をそのまま組み込むという荒々しいものなのだ。
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