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 熱力学第二法則によって、あらゆるものはどんどんと壊れてぐちゃぐちゃになる。もしも、何かが一向に壊れていく様子を見せなくて、そのものが「維持」されているのなら、そこにはエネルギーが外部から注入されたと考えられる。たとえば部屋の中というのは100年も放っておけば、埃が積もり、窓が割れ、風や雨が吹き込み、床が朽ちる。だけど、人が住んで手入れをすればそうはならない。人の労働というエネルギーで部屋は現状を維持する。

 状況が維持されて「何も起こらない」というのは、「何もしないで」得られるものではない。「何も起こらない」為には僕達は膨大なエネルギーを使わなくてはならない。そして、ここに一つの大きな問題がある。

 誰も、「何も起こらない」為に費やした労力を評価しないこと。

 村上春樹はこれら「何も起こらない」為の労働を「雪かき的仕事」と呼んだ。
 雪国では誰かが雪かきをしないと、道路は通れなくなるし、家は潰れるし大変なことになる。でも、毎日雪かきをしていてもそれは正等に評価され得ない。人間というのはどちらかというと「何かを起こす」為の労力を評価する。CDを100万枚売るとか、すごくおいしい料理を作るとか、そういった出来事は評価するけれど、何も起こらないという出来事でないことは評価しない。だけど、「雪かき的仕事」をしないということは僕達を破滅へ導く。

 警察は事件を未然に防いでも新聞には載らないけれど、大事件が起きてそれを解決すれば新聞にでる。予防医学を謳う医者が「お酒の量を減らしてください」と言ってもうっとうしがられるだけだけど、重症の肝炎患者を治療すれば感謝される。だけど、事件が起きて誰かが死んでしまうのと、それが未然に防がれたのとを比較すれば、どちらがいいのかは一目瞭然だ。

 もう一度書くけれど、僕達の社会は放っておけば崩壊する。今現在、社会というものが維持されているのは膨大なエネルギーをつぎ込み続けている結果だ。昔、そのエネルギー源はほとんどが肉体労働で、元をたどれば日光だった。だけど人類は石油や石炭を使うようになって、社会維持に必要なエネルギーを化石燃料に頼りだした。石油を使うと、より大きな社会を維持できるようになった。だけど、ちょうど部屋の中のゴミを外に捨てれば外の世界がより散らかるように、大きな社会を維持すると外側の世界、つまり自然界はより散らかって、その結果温暖化と環境汚染が進行した。

 ある意味ではこれは「何も起こらない」「維持」というのがどういうことなのかあまり考えなかった結果だとも言える。
 近年は環境問題に対する意識が高まっていて、まるで僕達はきれいな生活ときれいな世界を取り戻す方向へ動き出したかのように見えるけれど、ほとんどは錯覚に過ぎない。問題はリサイクルだとかクリーンエネルギーだとか、そんな些細なことではない。僕達は僕達の存在や社会がどうして維持されているのか、足元のところから考える必要がある。

 例えば社保庁で5000万件のデータミスは長い間かけて蓄積されたものだけど、ミスに気がついても修正しようなんて人はいなかったのではないだろうか。なぜなら自分のミスではなくて他人のミスだったから。さらに、それを修正するという行為は雪かき的で自分にとってはなんの利益も生まないから。

 コンピュータにデータを打ち込むときの職員達の様子を想像してみればいい。「まだ、こんなにある、大変ね」
「あなたゆっくりやりすぎなんじゃないの」
「大体一つに2分くらいだけど」
「私1分でできるわよ。そんなのきりないからばーっと打ち込んじゃえばいいのよ」
「でも、ばーっとやると間違えちゃいそうだし」
「そんなのみんな間違えてるわよ。人間なんだからしょうがないんじゃない。もう面倒だから私はあっと思ってもそのまま続けることにしてるわよ」
「そうなの」
「うん、みんなそうよ」
「そっか、じゃあ私もちゃっちゃとやるね」

 もちろんこれは只の空想だけれど、僕がそこで働いていたらこういうことになってしまう可能性を否定はできない。年金を出すのは数十年後の話で、毎日のルーチンワークで自分が扱っているデータに誰かの人生が掛かっているという感覚は麻痺しかねない。
 そして、数年の後にシステムの中でミスを発見しても、修正するよりはこうなるんじゃないだろうか。

「なんか、この人のデータおかしくないですか」
「ああ、入力ミスだよ。ときどきそういう変なのあるけど」
「どうしましょう」
「良くあることだし放っておけばいいんじゃない。どうせ入力したやつが悪いんだし」

 そうして、システムは実質破綻した。
 5000万件のデータ不整合を処理することは不可能だ。全力を尽くそうがどうしようがなくなったデータは帰ってこない。
 対策委員会の言う「国民の目線に立って、証拠がなくても妥当だと思われる場合は年金を出す」というのは、申し出た人にはあげる、といっているのとほとんど変わりないし、これはデータの復元はできないので申し出た人を信用するしかないのです、という不可能宣言だと受け止める以外ない。

 責任の追及なんて今更どうでもいいことだ。責任の所在は一所にはないだろう。これは「自分には責任がない」ということで雪かきをしなかった結果だ。はっきりいって責任なんて言葉はもう要らない。僕達は責任があるからそれをするんじゃない。あえて責任という言葉を使うなら、とりあえず目の前に現れた現象について僕達は一旦責任を引き受けなくてはならない。偽善や道徳の話ではなくて、責任があるないということで自分のすべき行動にラインを引いていては環境云々に関わらず僕らの社会は必然的に崩壊する。


2007年7月6日金曜日
 午前中にTAをしたあと、昼からM先生の講義。文学と物理で話が白熱して2時間半くらい伸びた。楽しかったけれど、前日あまり寝ていないのと朝からフル回転だったせいで授業のあと、ぐったりする。

2007年7月7日土曜日
 夕方まで研究室。
 夜、所用の為実家でご飯を食べる。祖父も来ていて、肉やサザエをわいわい言いながら食べる。
 実家から戻る途中、JR二条に11時ごろに着くので、近辺に住んでいるSちゃんと散歩でもしてから帰ろうと思っていると車を出してくれてドライブして家まで送ってもらってしまう。

2007年7月8日日曜日
 昼まで本を読んだりして、昼下がりから心斎橋。
 夜に京都に戻り、I君と10時から3時くらいまで作業。

2007年7月9日月曜日
 夜、Oとビールを飲みながらアジアカップを見ているとHさんが現れる。Hさんはベトナム人で、Oはトルコ人なので、トルコは出ていないけれど半分アジアの国だし、アジア人ばかりでアジアカップを見るというのも悪くないと思う。
 サッカーのあと解散すると、ドアの前からOが僕を呼ぶ。行ってみるとドアの隙間から巨大なクモの足が出ていて退治する。あんなクモははじめて見た。