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 久間防衛相が辞任したことにとても驚いた。以前の柳沢大臣産む機械」事件のときもそうだったけれど、言葉尻を捕まえて上げ足をとって攻撃を仕掛けるのはいい加減にやめるべきだと思う。当然だけど、単語の意味というのは文脈で変わるだけでなく、受け止める方のフィルターでいくらでも変わる。
 僕は久間防衛相の真意も何も知らないけれど、たった一つ「久間防衛相、原爆、しょうがない」の見出しだけで動かされた世論で政治まで動くなんてゴミみたいな社会だと思いました。これこそ本当に衆愚政治の実現じゃないか。僕はある程度自覚的であるつもりですが、文句や悪口を言うときだけ矢鱈と饒舌になる傾向を人は認識しているのでしょうか。

 「選挙に不利だからやめる、なんてポイントのずれた辞任の仕方で、全然誠意ある謝罪になってないし、だいたいなんか会見もへらへらしてるし、バカにしてるよまったく」という怒りはもっともなことで、それは僕には久間さんの最後の反撃だったようにも見える。彼は本当にバカにしているんだと思う。民衆のリテラシー能力の低さを。

 大臣だから言葉をもっと慎重に選ぶ必要があっただとか、政権を維持したい安倍首相が言うのは良く分かる。でも、スキャンダルのネタを探すことに必至なマスコミと、本当はスキャンダルを聞きたいだけの大衆がそんなことを言うのはおかしい。言葉に誤解は付き物で、それを久間さんはちゃんと釈明しようとしたけれど、そのときには既に誰も聞く耳を持っていない。全ての言葉には発言者とそれを聞くもの両方の責任がある。

 テレビのニュースで大々的に報道されるのはいつもスキャンダルや悲惨な猟奇事件だ。何故なら、マスコミはそれを一般に伝えたいと思い。民衆はそれを見たいと思っているから。ここに潜んでいる僕達のグロテスクな欲望を僕達はどれくらい理解しているのだろうか。現代日本のニュースショーが、人々が誰かの悪事と、特に異常な仕方の殺人事件を好むことの証明になっていることにどれだけ自覚的なんだろうか。何かを語るということの背後には、語られる対象に対する強力な欲望がある。

 人間というのは実際にそういうグロテスクな生き物なんだから、という肯定をすることは簡単だ。でも、僕は、嘘でもいいから、もうそういう話やめればいいんじゃないかと思う。

 かつて、世界は暴力が支配していた。強い者が弱い者を殺すのは当たり前だった。それは自然の摂理だから仕方がないのだと肯定することだってできただろう。でも僕たちはそうしなかった。150年前まで奴隷制度が本当にあった。50年前までアパルトヘイトが本当にあった。世界は何度も何度も変わった。僕達はこれからだって何度でも変わるだろう。

以下、asahi.comからの引用です。これだって誰かの行った要約ですが、一言要約よりはましだと思う。
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引用はじめ

【久間氏の発言要旨】

 日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのは、ソ連の侵略がなかったからだ。米国は戦争に勝つと分かっていた。ところが日本がなかなかしぶとい。しぶといとソ連も出てくる可能性がある。ソ連とベルリンを分けたみたいになりかねない、ということから、日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。8月9日に長崎に落とした。長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。

 幸いに(戦争が)8月15日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違えば北海道までソ連に取られてしまう。その当時の日本は取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている。

 米国を恨むつもりはないが、勝ち戦ということが分かっていながら、原爆まで使う必要があったのか、という思いは今でもしている。国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうことも選択肢としてはありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った。

(引用終わり)
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2007年6月30日土曜日
 Kと遅めの夜ご飯を食べに、四条で待ち合わせたのにがんばってまたラティーノへ行く。このところ外食はここばかりだ。お店の適度ないい加減さがとても心地いい。梅雨の曇り空に、それでも満月がきれいにかかっていて嬉しくなる。

2007年7月2日月曜日
 夜中にI君と布を縫い合わせる。すぐに終わると思っていたのに結局3時くらいまで。最初はミシンがうまく動かなくてミシンを分解したり掃除したりそんなことばかりをしていた。

2007年7月3日火曜日
 昼間に思い切ってベランダを掃除する。しばらく前にテレビやフロントフォークなんかはすてたけれど、まだバイクのエンジンが2個、タイヤ2個、ハンドル、ブレーキパッド、シートその他もろもろ、半分朽ちた本棚、壊れたレコーダー、ボールなどが散乱していて一切足の踏み場というものがない。バイクのパーツは流石にゴミへは出せないので、どうにか処理できそうなものだけ処理して、がらくたをきれいに並べて、ベランダ全体を水でピカピカにするとようやく人間らしい気分になる。見違えるようにベランダはきれいになって、ベランダへ出るという当たり前のことができるようになった。ベランダ用のサンダルを買いに行こう。