フリードリッヒ。

 最近、昔自分が好きだったものや、取り組んでいたことがリバイバルしつつあります。
 少しだけ講義をしてもらったフランス人のB先生が「日本に来たのは阿部公房の作品に衝撃を受けたせいだ(2週間寝込んだそうです)」と言っていて、片付けの途中でごった返しになっている部屋に戻ると積み上げられた本の一番上に偶然「砂の女」があったので、僕はパラパラと阿部公房の最初の作品を読み返すことになった。以前読んだときは高校生だったから、もう十年以上経つ。大学に入ってから、もう一度読もうと実家から持ってきてすっかり忘れていた。

 それから、久しぶりに武道の稽古に通おうかと考えています。もうどこの道場にも行かなくなって何年も経ちますが、大阪に良さそうなところを見つけたので通いたいなと思うのです。ただ、ちょっと遠いのでお金と時間のことを考えなくてはなりません。

 あと、先日Tに借りたマクガイバーのビデオを連日見ています。これは僕の人格の30パーセントを形成するに至った作品です。実際に子供のときに見たのは2、3話くらいのものなのですが、それはもう莫大な影響を受けた。ほとんど記憶もないのに影響だけはしっかりと刻まれていて、「マクガイバーが好きなんだけどほとんど知らない」という宙ぶらりんな状態でこの20年間ほどを生きてきて、そしてようやくTからビデオを借りることでそれをクリアにしている。

 マクガイバーのことを簡単に説明すると、アメリカのテレビシリーズで、主人公はフェニックス財団という秘密組織に所属しています。それでスパイだとかの任務をこなすのですが、彼はあまり喧嘩に強くなくて、ピンチを科学的な知識で切り抜けます。たとえばカーチェイスで追われていて自分達には武器がないとしても、乗っている車のマフラーとかシートの中のスポンジだとかガソリンでバズーカ砲を作って敵の車を破壊したりするわけです。大人になってから見てみると無茶苦茶なところがかなり眼につくもののやっぱり面白い。

 今や古典といってもいい名作「マクガイバー」と、それからビバリーヒルズ高校白書の現代版という表現が実にしっくりくる「The O.C.」の両方を僕は最近みているのですが、どちらにも共通するものがある。

 それは、メインのキャラクターが「変人で孤独」ということだ。

 マクガイバーは大学院修士課程の途中で「世界1周旅船のコックの仕事を見つけたんだ、大学を辞めてこの船で世界一周しよう」と恋人に持ちかけて、「修士の学位はどうするの」と切り返す彼女に、「僕は単に科学が面白いから勉強しているんだ学位なんでどうでもいい」と食い下がって、「あなたがときどき分からないわ」と振られてしまう典型的な「科学が好きで好奇心旺盛な青年」で、フェニックス財団のパーティーにも絶対に出たがらない。盟友ピーターに頼まれてしぶしぶ出席するとみんながびっくりする。

 The O.C.はカリフォルニアのお金持ち社会の話なので、それはもう毎回のように豪華なパーティがあるのですが、主人公達はパーティーを楽しむことがあまりない。パーティーで楽しそうにおしゃべりをしている人々を避けて、どこか隅っこへ行って何かを憂う、というのがこのドラマに限らずこの手の場面の定番だ。マジョリティーの談笑を避けて、マイノリティーが小さな別の世界を作る。

 The O.C.の主人公はお金持ち一家に引き取られたけれど、出身はスラムみたいなところで、このコミュニティでは最初から浮いている。その主人公が引き取られた一家の息子はオタクで、これもコミュニティでは少し浮いている。その2人の周囲にだんだんとコミュニティ側の、つまりマジョリティー側の人間が、自殺未遂をしたり父親がゲイであるとコミュニティ中にばれたりしてコミットしてくる。

 こういった「マジョリティーから脱出してマイノリティーになる」という構図はありとあらゆるドラマに見られる。廃部寸前の弱小クラブにだんだんと学校の人気者まで入ってきてクラブが存続する。転校生といじめられっこが仲良くなり、何かの事件が起きてそこにクラスで一番人気のある女の子が巻き込まれて仲良くなる。
 かつて、マジョリティーにおける人気者が物語りの主人公であったことがあるだろうか(多少はあると思うけれど、その場合主人公にはマイノリティとの秘密の結びつきが事件的に発生する)。

 多くの物語がこのようなマイノリティー中心で語られることには大きな意味があると考えられる。なぜなら、その物語を享受するのはマジョリティーに他ならないからだ。物語のなかでマジョリティーというのは「聞く耳を持たない強大な敵」だけれど、その物語はマジョリティ自身が受け取るのだ。

 このことから、「マジョリティはマジョリティが嫌いだ」という構造が見て取れる。このことはすでに多くの人が言っているし、別になんでもないことだけど。今は「”みんな”が”みんなと同じは嫌だ”」というへんてこな時代だ。ちょうど休日にディズニーランドで「何故みんな、こんなに混むのに来るんだろう」と頭をひねるような時代だ。モードを降りようとしたアンチモードの服がグランジが、シャビィが結局はモードに飲まれるように、アンチマジョリティは今やマジョリティそのものなのだ。

 結果として、マジョリティは仮想的なマイノリティに物語の中で結合することにした。何故なら自分自身を攻撃することはできないからだ。

 というようなことを考えていたのですが、ことはそう単純でもないように思います。もしも人々が「マイノリティへの欲望」を抱えているとしたら、それは当然マジョリティの存在なしには成功しない。マジョリティが存在しないことにはマイノリティは有り得ないからだ。
 だから、「マイノリティへの欲望」はマジョリティを生産する。人は一見マジョリティの役割を進んで担い、裏ではマイノリティへの欲求を育てる。パーティーへ行くのは本当はみんなで仲良くするためではない。そこから逃げ出すためだ。だから「そろそろ帰るよ」といって先に会場を後にする人に対して、残された人間は置き場のない変な手触りを覚える。出て行くものはマイノリティへの遷移を成し遂げ、残るものは仮想的なマジョリティを、いわば仮想敵国の役割を続ける。
 故に、主人公はパーティーを後にしなくてはならない。 

2007年5月18日金曜日

 実は今まで使っていたプログラムには「果たして本当にこれでいいのだろうか?」と思う点があったのですが、「もう今更聞けない」という状況だったのでしばらく困っていて、それが解決したので今は調子よく研究をしています。解決といっても、もちろんそれは思い切って聞いた、というだけのことですが、僕は、知ったかぶりを決め込んで人に質問をしない、という傾向が非常に強いので、これからはもう少し改めようと思う。少なくとも今回はこれで大分と時間をロスした。